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掲載情報

〈2018年〉
・文章 「〈読み〉への理解と共感をめぐって」(「短歌往来」10月号、評論21世紀の視座)
文章 松村由利子「失くした鰭は」評(ウェブサイト「詩客」)
・文章 萩原慎一郎歌集『滑走路』書評(「まひる野」9月号)
・文章 嵯峨直樹歌集『みずからの火』書評(「現代短歌新聞」9月号)
・短歌 「甑島」12首(角川「短歌」9月号)
・角川歌壇の選と選評(角川「短歌」9月号)
・文章 「時間を読む」(「歌壇」9月号、特集短歌の物語性)
・短歌 「初恋」10首(ウェブサイト「詩客」)
・角川歌壇の選と選評(角川「短歌」8月号)
・文章 「体感すべき〈記号〉—ニューウェーブ短歌再考」(「うた新聞」7月号、巻頭評論)
・角川歌壇の選と選評(角川「短歌」7月号)
・短歌 「雪と漫才」30首(「短歌研究」7月号)
・短歌 「思案橋ブルース」12首(「歌壇」7月号)
・文章 石床隆文『琥珀の時間』書評(「現代短歌」7月号、第一歌集ノオト)
・短歌 間取り短歌「どこかで」約70首(「太朗弐號」、川上まなみさんとの共作)
・文章 浦野興治『夏休み物語—昭和篇』書評(「テクネ」No.37 ※小説の書評です)
・短歌 1首(「斎藤茂吉記念歌集」第四十四集)
・文章 「阿波野巧也の「口語」」(「未来山脈」6月号)
・「かりん」四十周年記念座談会に参加(「かりん」40周年記念特集号)
・文章 麻生由美歌集『水神』書評(「現代短歌新聞」5月号、読みましたか?この一冊)
・文章 星野満寿子歌集『西暦三千年の雪』解説、帯文
・文章 千葉聡『短歌は最強アイテムー高校生活の悩みに効きます』書評(「短歌往来」5月号)
・文章 「川野芽生「Lilith」の凄み」(角川「短歌」4月号、特集現代ならではのテーマをどう詠うか)
・文章 石井僚一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』書評(「短歌研究」4月号)
・文章 「松平盟子という韻律」(「プチ★モンド」創刊100号)
・短歌 「具雑煮」3首(福岡文化連盟会員誌「文化」vol.195)
・短歌 「そういえば」(「あの日のにゃん りたーんず!!」、森本直樹さんとの共作14首)
・文章 「身体感覚とは何か」(「まひる野」2月号、特集身体感覚のこれから)
・選歌 「岩田正の三十首」(「現代短歌」2月号、〈追悼・岩田正〉)
・文章 「「身体」という視点で読む」(「現代短歌」2月号、〈追悼・岩田正〉)
・短歌 「柿」2首+エッセイ(「風」日本歌人クラブ第198号)
文章 「一首鑑賞*日々のクオリア」(砂子屋書房ホームページ、一年間・火木土曜日の連載)

〈2017年〉
・短歌 「精霊流し」10首(「文芸福岡」第6号)
・文章 本多真弓歌集『猫は踏まずに』栞文
短歌 「すごいねえ」10首(ROOMIE、今月のうたと暮らし)
・文章 「歌人は家族を語れるか」(「まひる野」12月号、2017年の特集を振り返る)
・短歌 「ラーメン」5首(「うた新聞」11月号)
・文章 「いてくれること」(「短歌研究」11月号、特集わたしを励ましてくれる、この一冊、この言葉)
・文章 「思い出とともに」(「現代短歌」11月号、特集三冊の本)
・短歌 「挽歌」15首(「たべるのがおそい」vol.4)
・短歌 「川」7首(「フワクタンカ②」)
・文章 川口慈子歌集『世界はこの体一つ分』栞文
・文章 大松達知歌集『ぶどうのことば』書評(「現代短歌新聞」9月号)
・文章 斉藤斎藤歌集『人の道、死ぬと町』書評(「まひる野」9月号)
・文章 中野昭子歌集『窓に寄る』書評(「ポトナム」8月号)
・短歌 「花言葉」(「Re:短歌」、森本直樹との共作8首)
・文章 「鰭のように揺れて」(角川「短歌」8月号、別冊付録「なぜ戦争はなくならないのか」)
・短歌 「赦す」7首(「現代短歌」8月号、特集「テロ等準備罪」を詠む)
・文章 今野寿美『歌ことば100』書評(「うた新聞」7月号)
・短歌 20首(森本直樹とのネットプリント「あの日のにゃん」)
・短歌 「引きかへす」9首、「肺魚」12首、「静かな日々」36首(個人紙「太朗九州①」)
・短歌 「ちぢむ」8首(「福岡歌会(仮)アンソロジー」vol.5)
・短歌 「恋」10首(「文學界」7月号、巻頭表現)
・文章 「〈時代〉と〈個〉の相克」(「まひる野」6月号、特集家族詠のゆくえ)
・文章 「選者を読む」(「短歌研究」6月号、特集詞華集を読む喜び、編むたのしさ)
・文章 「ひかりのうた」(読売新聞朝刊5月15日(月)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・短歌 「洞田明子」10首(「フワクタンカ①」)
・文章 「青春を詠む」(読売新聞朝刊5月1日(月)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「「イクメン」を超えて」(「現代短歌新聞」5月号、視点)
・短歌 「輝けば」7首(東京新聞夕刊4月22日(土)、詩歌への招待)
・文章 川﨑勝信編著『千代國一の風光』書評(「歌壇」5月号)
・文章 「思った以上」(読売新聞朝刊4月17日(月)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「幻想の絶景」(読売新聞朝刊4月11日(火)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「福岡短歌日記」(西日本新聞朝刊4月8日(土)、随筆喫茶 ※短歌と散文を組み合わせたエッセイです)
・文章 「読者の〈わたし〉の拡大」(日本歌人クラブ「風」第195号、新春競詠「わが輩は○○」寸感)
・文章 「目玉焼き」(「北冬」No.017、わたしの気になる《沖ななも》―。)
・短歌 「乱るれば」12首(「歌壇」4月号)
・文章 「2016年のベスト歌集・歌書」(「短歌往来」3月号、特集)
・短歌 「題詠「赤」「分」など」12首(「かばん」3月号)
・短歌 「あとは」12首(角川「短歌」3月号)
・文章 「方法意識について」(「井泉」1月号、リレー小論私が注目する最近の短歌表現の変化)


〈2016年〉
・文章 「技術」を読むということ(角川「短歌」12月号、特集短歌の「読み」を考える)
・文章 第65回源実朝を偲ぶ仲秋の名月伊豆山歌会記(角川「短歌」12月号)
・文章 大井学歌集『サンクチュアリ』書評(「かりん」11月号)
・文章 歌評(「梧葉」秋号、特集子供をうたった歌―わたしのベスト3―)
・文章 「夏を過ぎても夏の光は」(朝日新聞10月17日(月)、歌壇俳壇欄「うたをよむ」)
・文章 「読者としてのプライド」(「現代短歌」11月号、特集わたしの誌面批評)
・文章 千代國一歌集『暮春』鑑賞(「国民文学」10月号、千代國一生誕百年特集号)
・短歌 「くだつた」5首(「うた新聞」10月号)
・文章 「「短歌」はどういう「詩」か」報告記(「歌壇」10月号)
・座談会 「変化は自然に」(角川「短歌」9月号、特集次の一歩を踏み出すために)
・現代うたのアンソロジー「薬」(「NHK短歌」9月号)
・短歌 「二十時頃」20首(「短歌研究」8月号)
・現代うたのアンソロジー「数」(「NHK短歌」8月号)
・文章 吉田隼人歌集『忘却のための試論』書評(角川「短歌」7月号)
・短歌 「禁ずる」7首+エッセイ(「現代短歌」7月号、特集日本百名山を詠む)
・文章 「伊藤と小池の「読み」から考える」(「短歌往来」7月号、特集『土と人と星』&『思川の岸辺』)
・短歌 「卒業式」13首(「現代短歌新聞」6月号)
・短歌 「当然」12首(「歌壇」6月号)
・文章 「シンポジウムに参加して」(「短歌往来」3月号、今月の視点)
・文章 大口玲子歌集『桜の木にのぼる人』書評(角川「短歌」2月号)
・文章 「吉川との対話は可能か」―吉川宏志の時評の立ち位置(「うた新聞」2月号、特集吉川宏志著『読みと他者』を読む)
・短歌 「先に死ぬ」12首+エッセイ(「短歌往来」1月号、特集若い世代の競詠)

(3月まで「NHK短歌」テキストに「こころ・ことば・からだ」を連載)
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歌集『人魚』評

第2歌集『人魚』(角川書店)について、歌集評や一首評等をいただいております。
そのつどこちらに紹介させていただきます。
どうもありがとうございます。

・嶋田さくらこさん「さくらこの本棚」(「うたつかい」30号、2018年)
・江村彩さん「感情との格闘」(「井泉」No.78、2017年)
今井恵子さん「日々のクオリア」(砂子屋書房ホームページ、一首鑑賞)
花山周子さん「アウトラインと空洞」(「塔」2017.9、短歌時評)
・武田穂佳さん「見つづけること―『人魚』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』―」(「まひる野」2017.9)
・柳宣宏さん「「からだ化」の可能性(「まひる野」2017.9)
・丸地卓也さん「歌集紹介」(「かりん」2017.8)
・中津昌子さん「『人魚』と『岸』」(角川「短歌」2017.8、歌壇時評)
・田中槐さん「「表皮」と痛みと」(「歌壇」2017.8、歌集・歌書の森)
・野住朋可さん「隣の芝生~短歌探訪~」(「奎」2017.6)
・井上美津子さん「歌の本棚」(「玉ゆら」2017夏 vol.57)
千坂麻緒さん「薔薇十字蕩尽社」
・川野里子さん「読みましたか?この一冊」(「現代短歌新聞」2017.7)
・上村典子さん「話題の歌集」(「NHK短歌」2017.7)
・虫武一俊さん「怒りの熱」(「うた新聞」2017.6)
ukaji akikoさん「Sugarless」
塚田千束さん「嵐が丘に取り残されて」
・濱松哲朗さん「感情が突沸する時」(「塔」2017.5、歌集・歌書探訪)
・田村元さん「『人魚』の四句切れの歌について」(「りとむ」2017.5、時評)
・松村由利子さん「虚実の狭間にて」(「びーぐる」第35号、短歌時評)
・太田青磁さん「Book Review」(「短歌人」2017.5)
・水上芙季さん「最近刊歌集・歌書評・共選」(「短歌研究」2017.5)
・錦見映理子さん「激情のおもむく所」(「短歌往来」2017.5)
・岡崎裕美子さん「今月の歌」(「未来」2017.4)
・後藤明日香さん「週刊図書館」(「週刊朝日」2017年4月28日号)
・野口あや子さん「小さな選択こそが」(「現代詩手帖」2017.4、うたの聴こえるところまで)
・小島なおさん「気になるホン・ほん・本」(「コスモス」2017.4)
・三浦柳さん「書肆『星座』」(「星座」2017年春虹号)
・松平盟子さん「真珠時間」(「プチ☆モンド」No.96)
・松村由利子さん「『人魚』という事件」(朝日新聞朝刊2017.3.20、短歌時評)
・俵万智さん「新々句歌歳時記」(「週刊新潮」2017年3月9日号)
・松村正直さん「感情そのもの」(「現代短歌新聞」2017.3)
時明さん「時明ブログ」
光森裕樹さん「日々のクオリア」(砂子屋書房ホームページ、一首鑑賞)
・東直子さん「作品の深み増す30代 光森裕樹と染野太朗」(共同通信配信2017.2、短歌はいま)
・穂村弘さん「細部の味」(「週刊文春」2017年2月16日号、私の読書日記)
・光森裕樹さん「「豊かさ」の共有を」(東京新聞夕刊2017.1.14、短歌月評)
松村正直さん「やさしい鮫日記」
桜川冴子さん「桜川冴子の0時間目の短歌」
高木佳子さん「壜」
内山晶太さん「うたのホログラム」(砂子屋書房ホームページ、月のコラム)
恒成美代子さん「暦日夕焼け通信」
鈴木竹志さん「竹の子日記」

その他、ツイッター等でも歌を引用していただいたり批評をいただいたりしています。

全部剥がして土にする

生きている限りの未来どの場所に子の手を引けば助けられるか
だれもかれもが生きづらくなれば赤信号みんなで渡れば怖くないのか
コンクリート全部剥がして土にする土を耕すそして種を蒔く
花山周子「健康法」7首より

「現代短歌」2017年8月号、「テロ等準備罪」を詠む、という特集に発表された一連から。

〈未来〉とは、生者に与えられた特権なのかもしれない。
たとえ明日死んでしまうのだとしても、生きているその瞬間瞬間に、僕たちは〈今ここ〉を離れたその次の瞬間の未来を想定している。いや、もちろんそれは、意識にはのぼっていないことのほうが多い。けれども例えば、歩くという動作ひとつとっても、今この瞬間の身体が次の瞬間の〈未来〉を想定していなければ、脚の一歩一歩の動きの積み重ねとしての「歩く」は成り立ちえない。〈今ここ〉は次の〈今ここ〉に向けて準備された現在であり、僕たちはその先の〈未来〉を無意識に想定しながら生きている。ところが死者に〈未来〉はない。死んでしまったのだから当然ではある・・・もちろん、例えば、生者の記憶に残るかぎり、生者の変化に合わせて故人の人となりに対する解釈も、その生者において変化するから、そういう意味では死者だって〈未来〉に向けて変化しつづける。死者にも〈未来〉はある。けれども生きる主体として、生物として、死者はもう生者の想定するような〈未来〉を持ちえない。

掲出歌一首目の「生きている限りの未来」という二句を読んで、僕は以上のようなことを考えた。
これは、「生」というものが何であるのかを突き詰めて得られたあるひとつの思想、実感、というふうに捉えることができると思う。生きている限り〈未来〉はつづいてしまう。自分の向かう先へ先へと、〈未来〉が途方もなく連なっている。自分は今、生きている。だから〈未来〉を思う。〈未来〉に何が起きて、そこでどのように生きていくのか、生きるべきなのかを、生者であるからこそどうしても考えてしまう。無意識であっても〈未来〉を想定してしまう。そしてこの一首は、その〈未来〉における「子」の存在に意識を向けている。おそらく〈未来〉を楽観視していない。むしろ悲観している。だからこそその〈未来〉において「子」を助けるにはどうすればよいのか、ということを意識してしまうのだろう。〈未来〉を想定しているという点において、この人は今、まさに生きている。そして「子」を助けようとしている。
生者として「生きる」ということを引き受ける「覚悟」さえ、滲んでいるような気がする。

二首目、解釈するのはなかなか難しいのだが、皆が生きづらさを抱えたときに、赤信号をみんなで渡って怖くない、つまり無法状態が怖くないのだとすれば、それは、それ自体とても怖ろしいことだと僕は思う。一首目との関連で読んでみる。一首目が〈未来〉を悲観しているように見える、ということは、その〈未来〉において人は皆生きづらい生を送ることになるのだろう、と予想がつく。その生きづらさのなか、皆が「みんな」であるという理由で、本来なら守られてしかるべき一線を踏み越えてしまっている。集団心理が働いて、無法状態を受け入れてしまっている。生きづらさがそうさせている。最低限の倫理が無視され、皆が同じ方向に進んでいく。

上のようにまず二首について考えてみる。
その上で、何より大事なのは、この二首が「助けられるか」「怖くないのか」と「問う」ことに主眼を置いている点ではないか、と僕は考えた。悲観的に想定せざるをえない〈未来〉や、その〈未来〉に待ちかまえている恐怖を、一首としてただ説明・描写するだけでなく、その〈未来〉においてどうすれば「助けられるか」、本当にそれは「怖くないのか」と、説明・描写することを超えて、「問い」にしているのである。つまり、生者である以上は引き受けざるをえない〈未来〉を前にして、思考しつづけようとしているのだ。花山は生者として、思考停止に陥ることを拒んでいる。

そして三首目、前二首で思考しつづけることを自らに課したまま、花山は〈未来〉に対してあるひとつの態度をとる。「コンクリート全部剥がして土にする」のだという。今まさに花山の眼前にあるコンクリートだろうか、それとも、全世界に存在するコンクリートだろうか、それを全部剥がすのだという。現在形でそう述べている。
詳細を説明することは避けるが、日本語の現在形の機能は単に「現在」を記述するだけものではない。文脈・場面によってさまざまな意味を伝える。
コンクリートを剥がすこと自体、実際には個人の力ではどうにもならないことだ。それを考慮すれば、この「土にする」という現在形はおそらく、〈未来〉に対する主体の意志を表すものだと解釈できる。「意志をもってわたしはこれから(あるいは近い〈未来〉に)、コンクリートを全部剥がすつもりだ」と言っているのだと思う。そしてそこに現れた土を耕し、種を蒔くのだという。

客観的になって〈未来〉を単に予測し、その予測を説明・描写するのではなく、
主観的であることを手放さずに、自らの意志の伴う形で〈未来〉を想定している。


すこし別の話をする。
僕たちの身体は〈今ここ〉を離れることができない。現在、今この瞬間にとどまることしかできない。例えば、2分前の過去へ手を伸ばしてそこにあったコップに触れたりすることはできないし、3時間後に訪れる夜の闇を網膜をとおして見ることはできない。けれども、ある意味で心は、それができる。コップに二分前まで満たされていた水を思い出して、その透明度や冷たさを思い描くことができる。3時間後の夜を思って、過去に経験した夜を参照しながら、その闇の度合いを予測することができる。心は容易にそれをする。それが、想像する、ということだと思う。
そして同じく、〈過去〉や〈未来〉を描くことができるものがある。それは「言葉」だ。「さっきまでここにコップがあった。私はその中の水を飲んだ」「もうすぐ夜だ。今晩は冷えるだろう」などと、言葉は、〈過去〉や〈未来〉を描くことができる。

もちろん、これは不正確な説明を含むだろうし、こんな単純には説明しきれないものが身体・心・言葉には含まれるのだが、仮にざっくりとこのように説明してみて、掲出の三首に戻る。

この三首が僕には「楽観視することのできない〈未来〉を前にして言葉にできることは何か、短歌にできることは何か」と突き詰めて得られたひとつの答えのようにも思えるのだ。問いつづけること、そして、自らの意志を伴わせて〈未来〉を想定すること…それは「言葉」の性質をもってこそできることだ。〈今ここ〉を離れることのできる「言葉」だからこそできることだ。

問いの内容や、意志の内容もさることながら、この三首そのものが見せている方法そのもの(つまり、疑問形で収めていたり、強い意志を表す現在形をたたみかけていたりすることそのもの)が、生者として〈未来〉を生きるための方法として、花山に選ばれたものなのではないか。内容だけでなく、表現の枠組みそのものが、〈未来〉に対する強い祈りなのではないか。…蛇足だが、もちろん、〈未来〉への意志さえ方法として提出できればよいというものではない。例えば三首目、「コンクリート」という語の音や、それが指し示すモノとその質感、くりかえされる「土」という語の音、それが指し示すモノとその質感、結句の字余り、「蒔く」に至ってたったひとつ現れるM音の弾力等々が、この一首の意志の内容とその強さを支えていると僕は考える。

花山はおそらく、このたった三首で、短歌の可能性を広げてしまった。少なくとも、「社会詠」と呼ばれるものの領域を広げてしまった。…そのように言ってしまえるくらいの衝撃を、僕はこの三首から受けたのである。単に描写したり予測したりするにとどまらないのだ。そこには、不安に満ちた〈今ここ〉を生きながら、それでもなお、希望をもって〈未来〉を迎えようとする意志がある。意志を伴った身体がある。祈りがある。〈過去〉でも〈現在〉でもなく「生きている限りの未来」に意志をもって臨む歌に、僕は心底驚いている。

念のため付け加えておく。花山周子の歌を、掲出の三首をもって代表させるわけにはもちろんいかない。例えば角川「短歌」に連載中の「季節の歌」は、今回とはまた別の形でさまざまな感動を与えてくれる。毎月、短歌20首に加えて、エッセイもひとつ掲載される。一首一首を、月ごとの連作とエッセイを、そして連載の全体を詳細に誰かと語り合いたくなるほど、文章としてとことん評してみたくなるほど、僕はこの連載に惹かれている。けれどもそれはまた別の機会にと思う。

部屋を透きとおらしむ

ひとりの死ながくにれがみ冬過ぎて春過ぎてほのしろき粥となるまで
菊食べてしびるるごときつかのまを瞑目し部屋を透きとおらしむ
もはや父はむすうの蜻蛉せわしなくわが生涯の秋をながらう
内山晶太

「息のふくろ」(角川「短歌」2017年7月号)より。

なにかが集団で盛り上がっているようなときにそこから距離をとってしまう、ということが僕にはよくある。ふだんの生活において、SNSにおいて、その他どんな場でもそうだ。はたから見れば集団にまじっているようなときでさえ、その集団とうまくやっているように見えるときさえ、その集団の規模が大きくなればなるほど、気づくと心理的に距離をとっていることがある。これは別に無頼を気取ってかっこうつけているとか、集団が恐ろしいとか、そういったことによるものではない。幼い頃の「みんなの仲間に入りたいのに入れない、なんだかなじめない」という感じ(そんな経験、誰にでもあると思うのだが)がベースにあって、それをくりかえしているうちに、「入りたいのに入れない」のうちの「たい」という欲求の部分だけが消えて、「入れない」だけが〈型〉として残ってしまった、というのが実感に近い。そこに入れるものなら入りたい。けれども、眼前に〈集団〉が現れると、物理的にあるいは心理的に、たちまちのうちにごく自然と、その〈集団〉との距離が生まれてしまう。かといってそこにいるひとりひとりの人たちに親しみが湧かないとか、そこから早く離れたくなるとか、そういったことはまるでない。ふしぎな感覚だと思う。

そのようなことを、内山晶太の歌を読むたびに思う。みずからを取り巻く人・もの・ことからのどうしようもない距離があり、けれどもそのことはよろこびやかなしみといった類いを伴うことなく、ある〈型〉として定着している。

もちろんそれが作者(やら作中の人物やらなにやら)の実感とイコールであるかと言えば、それはあやしい。それは僕の、読者としての、ある〈感じ〉だ。

内山の歌は、周囲の人・もの・ことを感受したとき、その〈感じ〉を、視覚だけ、聴覚だけ、触覚だけ、あるいはイメージだけ、具体だけ、といったどれかひとつに集約させてしまわない歌だ。内山の歌によって人・もの・ことが感受されたとき、それが、自他の境界や感覚ごとの境界を不分明にしたところで姿をあらわす。

たったひとつの言葉で指し示されながら、歌があらわすのは、なんらかの〈全体〉である。

掲出歌について。
ある状況と感情が時を経て、「粥」としての実体、あるいは象徴性を帯びる。その段階で「ひとりの死」は、なにかひとつのことばで指し示せるような現象であることを止める。
ある味覚や嗅覚がみずからの体感のすべてに及ぶ。その全体が、しびれ、として表現される。それを、まぶたを閉じた暗がりのなかで、さらに研ぎ澄ます。その全体をもって、具体としての「部屋」そのものを変化させてしまう。もちろんこの「部屋」、あるいは部屋を透き通らせることそのもの、が具体を超えたなんらかの喩や象徴であってもよい。

内山の歌は、読者としての僕の体感や意識といったものを〈全体〉としてよみがえらせる。言葉の機能が世界の「分節化」であるならば、その分節の機能を用いながら、分節される以前の〈全体〉を再構成するという、とんでもないことをやってのける。しかもそれは観念によるものではない。「粥」や「部屋」という具体をもってそれを成立させる。余情や余韻、歌の奥行き、といったものとも違う。その感覚の、そして方法の独自性ゆえに、そしてそれがあまりにも微細で、全体的で、局所的であり、ユーモアさえ伴うがゆえに、僕は歌のなかに、たいへんに孤独なひとりを見る。どうしようもない〈型〉として、そこに孤独がある。しかしそれはさびしさやよろこびを伴う孤独ではない。それは、先に述べた、僕の実感している〈型〉とも、おそらくまったく違う。もっと純度を高めた孤独、と言いたくなる。「孤高」とはこのことか、と思う。

しかし「息のふくろ」の要となるのは、それがすべて父への挽歌であるということなのであり、また、そこにしずかに寄り添う感情なのであって、僕がここに記したような、歌のつくりそのものではない。

そして気づくのは、〈死〉〈死者〉という、あまりにも手触りの明確な、同時にまったく不明確なものと、内山の歌のなじみの良さだ。慎重に考えたいところではあるが、このことはきっと、内山の歌のつくりそのものと深くかかわっている。

「息のふくろ」は何度読んでも泣ける。上のような文章でなくほんとうは、全首を引いてもっと情緒的なところで鑑賞を書きたいくらいなのだが、それではなんだかいろいろとまずいと思うので、結局こういう文章になってしまった。この3首も本当は連作のなかでこそ生きるのだと思うけれど。

内山の歌については、まだまだ語り足りない。

第2歌集『人魚』刊行

僕の第2歌集『人魚』(角川書店)が刊行されます。

Amazonではすでに予約も始まっています。歌集の奥付には「12月31日発行」と記されるはずですが、Amazon等では12月27日発売となっています。いずれにせよ、その前後の刊行ということだそうです。

帯文を小説家の中村文則さんが寄せてくださいました。こちらもAmazon等に一部掲載されていますが、実際にはもっと長いものです。
カバー絵は瀬戸菜央さんが描いてくださいました。瀬戸さんはモデルのお仕事などもなさっている方です。

本当にありがたいことです。

歌集『人魚』を、どうぞよろしくお願いいたします。

青の缶、白の缶

金麦はかなしからずや青の缶、白の缶にも麦の絵揺れて
われの青、君の糖質オフの白 並べば夏の空のごとしも
田口綾子

 田口綾子「発泡酒」(「まひる野」2016.10)より。

「金麦」は発泡酒の名称(と、わざわざ注記するところがわたしいかにも下戸っぽいですが)。
 一首目は若山牧水の〈白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ〉をふまえているわけだが、この「かなしからずや」はちょっと難しい。わざわざひらがなにしているから、もしかしたら「愛(かな)し」で読んで、反語で意味をとって、「かわいらしくないことなんてあろうか、いや、たまらなくかわいらしい」といったふうに読むべきかもしれない。この場合、擬人化された「金麦」自身がそう思っているということではもちろんなくて、「金麦って、わたしたちにとって、ほんとにかわいらしいものですよね」というような話になる。あるいは、そのまま「哀し」で読んで、「正式なビールじゃないのに、たいそうな感じで麦の絵を掲げられてしまって、「金麦」も哀しいね」というようなことか。

 まあいずれにせよ、「金麦」最高! ということだと思う。

 さらに二首目も、牧水をふまえて読めばよいのだろう。ここではふたつの〈あお〉が対比されているのでなく、「青」と「白」が対比されている。通常のものと比べて糖質を75%カットしたという「金麦」の缶の色は、確かに白をベースにしています。
 牧水の歌においてふたつの〈あお〉は、近い色合いでありながらそれぞれ異なったものとして描かれている。「金麦」の青と白はもちろん、それよりも明らかに別々の色だ。
 
 その青の缶と白の缶、ふたつが並ぶと「夏の空」に見えるのだという。
 空のあざやかな青と、大きく立ちのぼる雲の白。

 ふたつの缶が、別々のふたりが、ひとつの景としてそこに現れるわけだ。

 ほとんど執着とも思えるような「金麦」に対する思い入れや、健康面で何か気にしているのか、「われ」とは違って「糖質オフ」の発泡酒を飲む「君」……たっぷりのユーモアの中に、明るくゆたかな関係性をもって「われ」と「君」とが提示されたのである。

 さらに余計なひと言を付け加えるなら、牧水のふたつの〈あお〉は、色が似通っていたからこそその違いがより際立ったのではないか、そして青の缶と白の缶は、あまりにも色が違うからこそひとつのものとして再定義できたのではないか、ということ。
 まったく異なった存在だからこそ、むしろひとつになることができる。そしてそれが〈ひとつ〉であるかどうかは、ふとした拍子に、自分たちの外側から眺められてはじめて自覚できることなのかもしれない。

 ふたりは別々のまま、混じり合うことなく、けれどもたしかにひとつに見える。
 目の前の小さな景が、夏の空となって、どこまでも広がっていく。

 ということでこれ、本当に素敵な恋の歌だなあと思って僕は読んだわけです。もちろん恋に限定する必要はないのですが。

 最後に、これらの歌を含む一連8首をすべて引いておく。田口さんの歌については、この一連の他にも引用して語りたいことがいくつかあるのだが、それはまた機会をあらためて。

   発泡酒
八月ののどに流せば夏の先へすこし冷えゆくビールと思ふ
秋立つといへば吹く風、秋立つと言はねば胸に留まれる風
プルタブを片手で起こすわれを見てかつこいいねと君は笑ひつ
金麦はかなしからずや青の缶、白の缶にも麦の絵揺れて
われの青、君の糖質オフの白 並べば夏の空のごとしも
宮城県名取市に君は納税しヱビスビールを一箱得たり
恵比須様も君もほほ笑みてゐたりけり金麦を馬鹿にするにあらねど
立秋のビールはのどを流れつつ夏から秋へ酔ひを運べり
田口綾子

とほいなあ

草食んでぢつとしてゐる夜の猫とほいなあ いろんなところが遠い
山下翔

 ツイッターより。

 ゆっくり読んでいく。

 草を食べている猫がいた。まずその猫が遠くに感じられた。道端の草なんかを食べる異種として、自分とはまったく質の違う存在として、猫が遠いものに思われた。物理的な距離も遠かったのかもしれない。

 舞台設定のための夜を描いたりせず、「夜の猫」というふうに、猫に対するシンプルな形容にとどめることで、間接的に夜の空間を示す。わざわざ「夜の」と限定されたこの猫は、特殊なものにも見えてくる。

 そして彼は気づいてしまう。遠いのは、そこにいる猫だけではない。あの場所も、あの時間も、あの人も、あの感情も、自分からはずっと遠いところにあるのだ。
 
 一字空けと「いろんなところ」がうまくはたらいて、結句において「遠い」は抽象化され、一般化され、それの指し示すものがなんであるのか、あらゆる可能性を示唆する。「トーイナー」の長音が、遠くを見やる視線や意識の長さを表すようにも思える。込み入った話になるので詳細は省くが、下句の破調は、一字空けや、一分節の音数の匙加減等により、肉声のつぶやきの感じを残したまま、定型としても無理なくひびいていると思う。
 
 そうしてここで、猫を遠いものとして眺めていた彼は、夜の猫と重なり合ってしまう。猫が自分から遠くにいるのと同じように、あらゆるものが自分から遠い。だから、その猫がまるで、彼自身であるかのように思えてくる。

 猫と自分とが混じり合う。遠いもの同士がそれぞれに混じり合う。そしてただ、遠いということだけが、夜の中で抽象化されて、にじみ出すようにそこにある。

 「いろんなところ」から隔たっている猫。
 ひとりでじっと佇む、夜の自分を自覚する。

 山下の短歌は不思議なたたずまいをしている。「てにをは」の扱いをはじめとした確かな技術があるからだろう、歌の骨格はしっかりとしており、韻律への配慮も利いていると思うのだが、よく読むと、視点や詩的飛躍が独特である場合が多い。とてもシンプルに見えるのに、複雑な回路をもっていたりする。その中に、オーソドックスな、なつかしささえ感じさせる余情を湛えていたりする。時間と空間をたっぷりと含む。威勢のよい口調の奥で、自分を、他者を、しずかに見つめている。

 山下の、歌の鑑賞や批評も魅力的だ。歌に憑依されるように読む。ことば一語とそのつらなりに対する異様な反射神経がある。人の生に対するこまやかな眼差しがある。(本人のブログや、九大短歌会のブログ等で読める。)

 早く新人賞をとるなり歌集をだすなりすればいいのに、と思う(←無責任)。とりあえず、10月に発行されるはずの「九大短歌」第四号を楽しみに待ちたい。

 以下、山下の数ある歌の中から20首を挙げてみる。多いようだが、これはほんの一部でしかない。

記憶よ、お前いつからそこに立つてゐる。鉛筆で手を汚さなくなり
さみしくて暑くて、寝てた。これだから夕方は嫌だ、母がゐさうで。
きみがまた顔をうづめて嗅いでゐる臍のにほひのもう春ですか
曲がり角ぐわーつと口を開けてみる犬もぐわーつと応へてくれる
読むかもしれぬ本は読まないかもしれず鞄に入れてそこからが旅
海峡といふ断絶へ舟を出す、算段などは追ひおひでいい
準同型定理へいたるみちすぢのはたてに鳶がまふ取水塔
わたしもすごくわかりますとふ相槌の、そうやつて呑まんでくれ 俺を
それでキャベツを齧つて待つた。焼き鳥は一本一本くるから好きだ
喉で圧して腹へ落としてゆくときの腴(すなずり)のごと来たり嫉妬は
胡麻鯖に胡麻のざらつき、我が生に黒瀬珂瀾のある会者定離
わたしは町をまちはしづかに夕暮れを掻きみだしつつ冬が来さうだ
愛は愛より生(あ)るる時間の長いよなあ帰つたら柿の実を見にゆかう
愛がなにかわからなくなつて泣いてゐたキャベツは嚙んで食ふから旨い
母がしてゐたやうに花買ひ水を買ひ生家の墓へと坂をのぼりつ
一口も飲まないうちにことごとく氷融けたるおかはりのみづ
とほくから呼ぶこゑがする遠いから大きな声で 呼ぶこゑがする
不安げにつまんでかじる外郎(ういらう)のかくやはらかくきみに惚れたり
芥火の残り火も果て海のおとしばらく聞けばきみを起こしつ
檀弓(まゆみ)咲くさつきのそらゆふりいづる母のこゑわれにふるへてゐたり
山下翔





(…勝手に書いておいてアレだが、良いふうに書きすぎた感があるので、今度福岡歌会(仮)に参加するようなことがあったら、山下をやっつけようという気になっている。)

卓袱台をひっくりかえす

四月十一日雪の吹き荒れて北海道は武道なんです
ほろほろと夕雲は浮き夕雲のごとき雇用にご飯は炊ける
卓袱台をひっくりかえす荒くれの心に卓袱台なければうたを
北山あさひ

 北山あさひさんの連作「四月のできごと」(「まひる野」2016年6月号)より。

 ユーモアというのは、客観とかメタ認知とかいったことによって生まれるものであり、それを働かせるためには、余裕がいる。余裕が客観を生む。……とまずは仮定して、以下、しばらくまたごたくをならべます。

 今回の北山さんの歌の余裕は、「武道」「雇用」「卓袱台」という語がもたらすものだと思う。四句目あたりのそのたった一語が、僕が一首を読みながら知らず知らずのうちに準備してしまっていた定型的な詩情を、ユーモアとともに、ひっくりかえした。

 北山さんはいつも、不意にはしごを外す。

 四月になってもまだはげしく吹雪く様子から、北海道という土地をざっくりと「武道」に見立てている。北海「道」という武道。そして例えば、道着を着た人たちがだんっだんっと畳に打ちすえられる様子を重ねながら吹雪を思うとき、そこには、見知っていた、そして同時に、今までに見たことのない景がひろがる。ちょっと笑う。シリアスなのに。「北海道は武道」……なんて思い切りのよい表現だろう。それから、こまかくは触れないが、初句から二句への句またがりや「道(ドウ)」の脚韻も、注目すべき効果と意味を含んでいる。この句またがりによって「十一日」の中に「一日(終日)」が、掛詞のように浮き上がったりもするわけだ。
 夕雲の歌。口をあまりあけないウとオの音が一首を統べている。それがあまりにもなめらかだから、意味よりも音をやや先走らせて読むことになる。すると「雇用」でつまずく。音の流れにはそのまま乗っかっていたいけど、定型的な詩情に唐突に差し挟まれる「雇用」が、つまずかせる。だから立ち止まる。初句に返ってまた読んでみる。するとこの「雇用」が、いかにも頼りない、泣きたくなるようなものとして再登場する。「夕雲のごとき雇用」。でも、そんな「雇用」であっても、それのおかげで食べていけるのだ。一方で、「雇用」という非・詩語(というと語弊もあるだろうが)と、ウオ音に対比されたご「飯は炊け」るのアエ音が、僕を感傷から引きはがす。かなしい感情や統一された音に、僕を没入させてくれない。客観的であれ、と要求してくる。泣かせてくれない。むしろ、ちょっと笑う。けれども一首全体をふりかえれば、やっぱり泣ける。
 卓袱台の歌。卓袱台が二回も出てくることにまず笑ってしまう。で、これ、試しに「卓袱台をひっくりかえす。」と二句目で一度切ってしまって、本当に卓袱台をひっくりかえしたんじゃないかと思って読んでみた。荒くれていたから、卓袱台をひっくりかえした。でも、心の中には卓袱台がない。ひっくりかえしたのは手であって、腕であって、身体であって、実は心は、何もしていない。心に直接触れることはできない。心の中に卓袱台はない。本当にひっくりかえしたい心には触れることができない。でも、だからこそ言葉に向かう。「うた」に向かう。心と言葉をつなげようとする。……ちょっと無理もあるんだけれど、そんなふうに読んでみた。

 
 ……ここまでがごたくです。

 北山さんの歌の迫力は、一語のひっくりかえしによってあらわれる客観とユーモアにあるのだと思う。そこに僕たちはハッとなって笑えばいい。トホホとなって泣けばいい。じんわりとかなしめばいい。日本の雇用がどうとか賃金がどうとか考えたっていいのかもしれない。けれども僕が一番大事にしたいのは、その一語がまぎれもなく、四月の吹雪に呆然としたり、それでも食べていくのだなあとかるい諦めのうちに佇んだり、苦しみながらもプライドをもってどうにかこうにか言葉を求めたりといったその本人の、あまりに独特なその主観によってもたらされたものだ、ということだ。主観が客観を生んだのである。そこに余裕なんてものは、なかったかもしれない。
 でもその個性的(という言い方は好きではないけれど)な主観が、読者を笑わせ、感動させ、救ったりもするわけだ。

 それを「誰かが自分の生を全力で生きることが、そのまま別の誰かの生を救うことにもなる」というふうに言いかえたら、飛躍があるだろうか。大げさだろうか。でも僕は北山さんの歌を読むたびに、そんなことを考えてしまう。

 そんなふうに考えること自体が、救いになるときもある。

それを下さい

左より三つめのそれ 咲ききるをためらうごときそれを下さい
中野昭子

 中野昭子『躓く家鴨』(1987年)より。

 今日こそは本当に短くまとめたい。

 この歌はそのまま、花屋での発話だと考えればよい。自分からちょっと遠いところにある花を、買おうとしている。

 この歌には非常におかしなところがある。現代短歌文庫の『中野昭子歌集』の中で花山周子さんは次のように指摘している。

「日常から直接台詞を切り抜いてきたような体裁を取りながら、しかも違和感限りない。口語文体に「左より」「咲ききるをためらうごとき」という文語調が差し挟まれているためでもあろうが、「咲ききるをためらうごとき」という内容への比重のかけ方が一首のトーンを歪めている。「ひらきかけの蕾」などとさらっと言えそうなところ、妙な圧力がかかるのだ」(「第一歌集『躓く家鴨』によせて」より)

 そう言って花山さんはそのまま中野昭子論を展開していくのだが、僕はとりあえずこの一首にとどまる。

 僕は最初、その「妙な圧力」を感じとることができなかった。初読では、日常にも発話され得ることばとして違和感なくこれを受け取ってしまった。別の文章で引用する機会があって、この一首をじっと見つめているうちに「なんか変だ」と思い、その違和感を手がかりに言葉の中に分け入ってはじめて、花山さんの言う「妙な圧力」に行きついた。もちろん、「咲ききるをためらうごとき」に詩情があって、そこに発話者の心情(ためらうようなその花への共感なのか、あるいはそれを自分のものにしてしまうところに暴力性があるのか、そのあたりの感受の仕方は読者によって異なるだろうが)を読むことはできたつもりだ。けれども、少なくとも、文体上の違和を感じとることはできなかった。それで、自分はずいぶんと、短歌の「文語口語混交文体」(と安易に言っていいのかはわからないけれども)に慣れてしまっているんだなと思った。自分のそういう「短歌脳」みたいなものが本当に嫌だった。文体に対する感度がかえって低くなっている、というか。

 短く終わらない気がしている。

 で、そのように嫌なんですけれども、文体上の具体的な問題はとりあえず脇に置いて、その上で、この歌が僕にとって不思議なのは、あえて誤解を招く言い方をするけれども、じゃあなぜ内容に関して僕はこれを「短歌的」に読めないのだろうか、ということだった。「それ」とか「ためらうごとき」とかいうふうに、象徴性を呼び込みやすい描き方がされているのに、僕は「それ」を「花」としか読めない。花屋で花を買おうとしている場面にしか思えない。生とか死とか恋とか愛とか、何か〈人間的〉な営みについて「下さい」と言っているとは読めない。つまり、暗喩の一首として読めない、ということだ。「咲く」という動詞は基本的に「花」に対して使われるから、この語が読みの可能性を「花」に限定してしまうのかとも考えたのだが、あるいは、「左より」という空間的位置を示す言葉や「三つ」という数え方が、暗喩としての読みを排してあくまでも具体物へ読者の想像を引き留めているのかとも思ったのだが、そういうふうに、語単位で考えていけばいくほど、むしろ、暗喩の一首として読めるような気がしてくる。「咲く」も「左より」も「三つ」ももちろん、花以外のものについて大いに使用することができるわけだから。

 にもかかわらず、そう読めない。

 短く終わらない。むしろいつもより長い。

 つまり僕はこの一首について、「短歌的」に想像を広げていけないのである。「花屋での場面を借りて人生に直結する箴言的な何かを引き出している一首」「死とか恋とかいったものの何か一般的なありようを示している一首」として読めない。暗喩の一首として読めない。「それ」は花であって、この一首は「花屋」でのやりとりの一部だ、としか思えない。

 と、ここまで考えて、僕はまったく自分の読みに自信がなくなる。暗喩の一首として読める読者もいるんじゃないか。そもそも僕は文体上の「妙な圧力」を感じ取れなかった、ということはそもそも何かを決定的に見落としているんじゃないか、暗喩の読みができないにしても「それ=花」と読まずに、別の具体物を想像する読者もいるんじゃないか、いやそういう読者の方が多いんじゃないか、と自信がなくなる。

 まったく自信がなくなる。読者一般でなく、ごく個人的な読者としての自分しか見えなくなる。この歌の前で孤立するような感覚をおぼえる。

 そしてここで、「それ」が何なのか、わからなくなってしまう。「それ」が「それ」のまま、歌の中で立っている。花でさえなくなってしまう。

行為と〈心〉

ひろへどもひろひつくせぬ父の骨ひろひてゐたり夢の中にて
外塚喬
夢に来し木馬やさしくわれを嘗め木馬になれとはつひに言はざり
山田富士郎

 外塚喬『昊天』(1984年)、山田富士郎『アビー・ロードを夢みて』(1990年)より。

 ブログのこの「読みのこころみ」に書く文章が、たった3回の間にどんどん長くなった。読み返して、われながらしつこい。いちいち細かいことを説明している。でもそういうのを求めて始めたブログじゃない。歌を分析的に読むためだけのブログじゃない。田村について詳細な考察を加えるためのブログでもない。好き放題にやるのだった。適当なことも書くのだった。

 外塚のこの一首から、父との葛藤、あるいは、父に対して遂げることのできなかった思いとその強さを読み取ることは難しくないはずだ。山田のこの一首は、僕が短歌を始めた頃に出会った大好きな歌で、やさしく寄り添われているはずなのに、結局は異種としてしか交わることのできない木馬の存在が、異様で悲しい。「木馬の舌って、木だよな。そんなのでなめられたら痛いよな」などと細部を想像して、身体的な痛みとともに記憶している歌だ。

 こういった歌を読むとき、父に対する葛藤があったからこのような夢を見た、他者との断絶、孤独を感じているからこのような夢を見た、というふうに主体の〈内面〉を想像したくなる。でも、実際はどうなんだろうか。このような夢を見てしまった結果、自分のそういう〈内面〉が形成された、ということもあるのではないか。それは「歌にしてみて初めて、自分がそのとき何を考えていたか、どう感じていたかがわかることがある。歌によって自分の気持ちを事後的に知ることがある」といった話ではない。そういう話ではなくて、まったくのゼロから、たまたま「その夢を見てしまった」ということによって作り上げられる気持ちや人生の物語があるのではないか、ということだ。いや、もちろん、専門家から「夢って、意識であれ無意識であれ、〈内面〉と呼ばれるものに根差すものだから、そんなことはありえない」と言われたらそれまでなのだが、今僕はそういうことが言いたいのでもない。とにかく上に挙げた2首をとおして、「行為が〈心〉をつくる」ということについて考えたのである。

 行為が〈心〉をつくる、行動が気持ちをつくる……この捉え方、実はもう決して珍しいものではない。(素人だから下手なことは言えないが、心理分野の認知行動療法などは、そのような考え方もベースに敷いているはず。)
 でもたぶん僕はそれを、日常生活のなかでは忘れている。気持ちや動機がまず初めにあって、それに沿う形で行動が生じるのだと思い込んでいる。何の気持ちも動機もない行為があって、そこから〈心〉が作り出されるなんてことは、信じていない。そしてその思い込んだ地点から、ものごとを理解しようとしている。ほとんど反射的にそうしている。
 そしてそれは、歌を読むとき特に、強固な規範として作用している気がする。場合によってはそれを「バイアス」と呼んでしまっても良いかもしれない。
 歌に〈人間〉を読むとか〈内面〉を読むとかいったこととはまったく別の、コトバに即した技術的な批評や鑑賞、コトバや短歌の生理そのものを考察するような批評や鑑賞は、ずいぶんと増えているように思うけれど、そういった批評や鑑賞においてさえ、その裏の、奥のほうにある、ニンゲン一般に対する根本的な捉え方は、行為と〈心〉の関係ひとつとってみても、どうもあまり変わっていないのではないかとふと思ったりするのである。……いや実は、瀬戸夏子歌集『かわいい海とかわいくない海 end. 』について考えているときに、そう思いついたわけだが。

「じゃあその行為や〈心〉を短歌に成形する「言葉」ってそもそも何だよ」という話にもなるのだが、話がでかすぎる。

 適当なことを言った。結局長くなった。