あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

染野太朗
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とほいなあ

草食んでぢつとしてゐる夜の猫とほいなあ いろんなところが遠い
山下翔

 ツイッターより。

 ゆっくり読んでいく。

 草を食べている猫がいた。まずその猫が遠くに感じられた。道端の草なんかを食べる異種として、自分とはまったく質の違う存在として、猫が遠いものに思われた。物理的な距離も遠かったのかもしれない。

 舞台設定のための夜を描いたりせず、「夜の猫」というふうに、猫に対するシンプルな形容にとどめることで、間接的に夜の空間を示す。わざわざ「夜の」と限定されたこの猫は、特殊なものにも見えてくる。

 そして彼は気づいてしまう。遠いのは、そこにいる猫だけではない。あの場所も、あの時間も、あの人も、あの感情も、自分からはずっと遠いところにあるのだ。
 
 一字空けと「いろんなところ」がうまくはたらいて、結句において「遠い」は抽象化され、一般化され、それの指し示すものがなんであるのか、あらゆる可能性を示唆する。「トーイナー」の長音が、遠くを見やる視線や意識の長さを表すようにも思える。込み入った話になるので詳細は省くが、下句の破調は、一字空けや、一分節の音数の匙加減等により、肉声のつぶやきの感じを残したまま、定型としても無理なくひびいていると思う。
 
 そうしてここで、猫を遠いものとして眺めていた彼は、夜の猫と重なり合ってしまう。猫が自分から遠くにいるのと同じように、あらゆるものが自分から遠い。だから、その猫がまるで、彼自身であるかのように思えてくる。

 猫と自分とが混じり合う。遠いもの同士がそれぞれに混じり合う。そしてただ、遠いということだけが、夜の中で抽象化されて、にじみ出すようにそこにある。

 「いろんなところ」から隔たっている猫。
 ひとりでじっと佇む、夜の自分を自覚する。

 山下の短歌は不思議なたたずまいをしている。「てにをは」の扱いをはじめとした確かな技術があるからだろう、歌の骨格はしっかりとしており、韻律への配慮も利いていると思うのだが、よく読むと、視点や詩的飛躍が独特である場合が多い。とてもシンプルに見えるのに、複雑な回路をもっていたりする。その中に、オーソドックスな、なつかしささえ感じさせる余情を湛えていたりする。時間と空間をたっぷりと含む。威勢のよい口調の奥で、自分を、他者を、しずかに見つめている。

 山下の、歌の鑑賞や批評も魅力的だ。歌に憑依されるように読む。ことば一語とそのつらなりに対する異様な反射神経がある。人の生に対するこまやかな眼差しがある。(本人のブログや、九大短歌会のブログ等で読める。)

 早く新人賞をとるなり歌集をだすなりすればいいのに、と思う(←無責任)。とりあえず、10月に発行されるはずの「九大短歌」第四号を楽しみに待ちたい。

 以下、山下の数ある歌の中から20首を挙げてみる。多いようだが、これはほんの一部でしかない。

記憶よ、お前いつからそこに立つてゐる。鉛筆で手を汚さなくなり
さみしくて暑くて、寝てた。これだから夕方は嫌だ、母がゐさうで。
きみがまた顔をうづめて嗅いでゐる臍のにほひのもう春ですか
曲がり角ぐわーつと口を開けてみる犬もぐわーつと応へてくれる
読むかもしれぬ本は読まないかもしれず鞄に入れてそこからが旅
海峡といふ断絶へ舟を出す、算段などは追ひおひでいい
準同型定理へいたるみちすぢのはたてに鳶がまふ取水塔
わたしもすごくわかりますとふ相槌の、そうやつて呑まんでくれ 俺を
それでキャベツを齧つて待つた。焼き鳥は一本一本くるから好きだ
喉で圧して腹へ落としてゆくときの腴(すなずり)のごと来たり嫉妬は
胡麻鯖に胡麻のざらつき、我が生に黒瀬珂瀾のある会者定離
わたしは町をまちはしづかに夕暮れを掻きみだしつつ冬が来さうだ
愛は愛より生(あ)るる時間の長いよなあ帰つたら柿の実を見にゆかう
愛がなにかわからなくなつて泣いてゐたキャベツは嚙んで食ふから旨い
母がしてゐたやうに花買ひ水を買ひ生家の墓へと坂をのぼりつ
一口も飲まないうちにことごとく氷融けたるおかはりのみづ
とほくから呼ぶこゑがする遠いから大きな声で 呼ぶこゑがする
不安げにつまんでかじる外郎(ういらう)のかくやはらかくきみに惚れたり
芥火の残り火も果て海のおとしばらく聞けばきみを起こしつ
檀弓(まゆみ)咲くさつきのそらゆふりいづる母のこゑわれにふるへてゐたり
山下翔





(…勝手に書いておいてアレだが、良いふうに書きすぎた感があるので、今度福岡歌会(仮)に参加するようなことがあったら、山下をやっつけようという気になっている。)