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浪江まき子「刻々」

3月3日、第一回笹井宏之賞授賞式とシンポジウム「わたしたちのニューウェーブ」。僕は授賞式で、笹井宏之賞の選考経過や応募作全体の傾向、そして僕の個人賞として選出した浪江まき子さんの連作「刻々」について話した。

遊歩道のおわりに石のいすがありスーツの男はうなだれている
/浪江まき子「刻々」(「ねむらない樹」vol.2)

「刻々」50首は、主体の生活空間を淡々とスケッチしていった連作、それを50首において淡々とやり切った連作、としてももちろん読めるのだが、それは決して風景や人物の客観的でフラットな描写・写生という類いのものではないと僕は思っている。上に挙げた一首(50首中44首目)、たしかにこれは、そこに何があるかを、感情や判断を交えずに、フラットに描写しているようにも見える。けれども、

・初句の六音
・「おわり」「いす」「うなだれている」という平仮名表記
・「石」の「いす」という「い」の頭韻、二音節という共通
・お「わり」と「あり」の脚韻
・「石のいす」から「男」への、「あり」という順接による接続
・客観に見えながら「うなだれている」にわずかに感じられる、主体の判断

といったところなどが、フラットに見える描写だからこそ、つまり内容面において、思考や感情、心情の類いを核に据えてそれを主張するような作りではないからこそ、それらが意味内容ではなく言葉そのものとしてよりはっきりと意識でき、そういう微細な部分部分の工夫による「印象」が一首として統合されたときに、その部分部分が足し算あるいは掛け算されたようになって、一首の全体の「質感」をとても繊細に決定しているように思う。初句六音の印象、平仮名の印象、音の重なりの印象、理路(ここではつまり順接のこと)の印象、主体の判断、それらが、意味内容とはまた別の部分で読者を刺激すると思う。「印象」「質感」という言葉でしか表せないような、全体的で曖昧模糊としたものが、一首の意味内容とともに、あるいはそれ以上に、読者に迫って来ると思う。僕はその「迫って来る」という読者としての経験を指して、その経験されたものを「体感」と呼ぶ。

この「体感」は、「刻々」に限らず、どんな歌においても経験しうる。ところがほとんどの場合、その「体感」は、その歌にあらわれた景や心情や論理の背景になってしまって、歌の読みの中心にはならない。しかし「刻々」においてはその「体感」こそが、連作の要として見えてくるのだ。

ある主体の身体は、その全体で周囲の環境を感じ取っているはずだけれど、認識や思考はそこで得た情報を整理し、そのときその主体に必要なもの、大切なものだけに焦点を当てる。取捨選択をする。そしてその取捨選択された情報同士を結び付けたり、その主体の経験と関連させたりすることで、そこに意味内容を生じさせる。それがおそらく「解釈」ということだ。そこにはもちろん心情や感情が伴う場合もある。けれども「刻々」を読んでいるときに僕が感じるのは、取捨選択される直前の、意味内容に結び付けられる直前の、解釈の直前の、身体全体による感受の段階の「質感」なのだ。フラットであるからこそ、また、それを50首の連続でたたみかけるからこそ、そして上に箇条書きにしたような表現の(形式上の)機微がランダムに配置されているからこそ、僕はそのように感じるのだと思う。そして、上の箇条書きで言う「初句六音」など、57577の定型・リズムの扱いにも、公式化できないふしぎなランダムさがあり、それをもって生じる韻律も、読者としての体感をさらに刺激してくる。部分部分の印象と韻律そのものがある「体感」を経験させる。

白茶けた神社の説明書きのなか「由緒」だけ渡らなくても見える
列をなすガス管工事のトラックのそれぞれに与えられた作業
房のかたちのまま枯れているあじさいがひとつ原チャリのうしろに残る
コンビニに貼りだされている二週間で千円未満の募金総額
細い道を覗くと年中電飾が稼働している家がある路地

50首のうち45首目から連続した5首を挙げた。例えば、木製か金属製の看板を「神社の説明書き」というふうに言うところや、作業の具体でなく「与えられた作業」と言って、「与えられた」というところに重きを置き、またトラックの列の全体に俯瞰するような眼差しを送っている点など、上の箇条書きには挙がらなかった種類のもので一首の「質感」を決定している要素はまだまだいろいろとある。そういった、歌の個々における特色が、50首のうねりとなって押し寄せてくるようで、50首全体が、全体として、読者としての僕の体感を刺激してくる。それは僕を、思考や感情や心情といったものから解放する。景や心情や論理から解放する。僕が普段勝手に行なってしまっている、周囲の世界への意味付け、周囲のもの同士の関連付け、つまり「解釈」から自由にしてくれる。それが本当に心地よい。脳や心、精神で生きていると思い込んでいる僕という主体に、身体が回復される。

「刻々」の一首一首は、それを詠んだ者による「意味付け」「関連付け」「解釈」によって構成されているにもかかわらず、である。

心身二元論を受け入れたとしても、僕はつねづね「言葉は、心・精神ではなく、身体から発せられている」と思っているのだが(音声としての言葉が声帯という器官から発せられているとかそういう物理的な話ではなくて)、そのことを考える上でもこの「刻々」は大切な作品だと思っている。

「刻々」についてはまだ考えていきたいけれど、とりあえずここまで。

ところで「わたしたちのニューウェーブ」、僕もいろいろと考えないではなかったんだけれども、それはまたそのうち、書けたら。短歌とはいったいなんなのか、それをもっと本気で突き詰めていかなければならないんだろうなと思う。
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ためらふ

2月25日・26日、都内のある小学校で短歌の授業をした。4年生と6年生。そのなかで次のような歌をとりあげた。

悲しみを薄めたやうな色合ひの入浴剤を今日はためらふ/橋爪千夏

東洋大学第17回「現代学生百人一首」(2003年)の入選作だ。作者は当時高校三年生。僕は26歳で、教員一年目。国語科の教員に配付された「現代学生百人一首」の冊子をぱらぱらとめくっていて、この歌に出合い、心底驚いた。高校三年生でこんなにすばらしい歌を詠むことができるのか。旧仮名遣いもなんてこの歌にふさわしいんだろう。それ以来僕はこの歌を折に触れて思い出す。もう15年くらいこの歌との付き合いがあるわけだ。本当に好きな一首だ。

さて、しかし、実はこの一首には、とても曖昧な点がある。

入浴剤の色は具体的にはわからないけれど、具体を超えてこの「悲しみを薄めたやうな色合ひ」は、妙にリアルにその色彩とその質感を提示するし、また、「今日は」と限定をかけているのだから、いつもはこの入浴剤を使うのにためらったりはしない、といったこともわかる。一首が示す景や状況に曖昧なところは一切ない。けれども肝心のところがわからない。それは、なぜそれをためらっているのかという、その理由だ。

あまりにも楽しいことがあったから、それを保っておきたくてためらっているのか。それとも、あまりにも悲しいことがあったから、それをさらに増幅させてしまいそうでためらっているのか。それとも別の心情か。あるいは誰かを気遣っているのか。肝心のところがわからない。

15年前、僕は一読して「ああ、そんなに悲しいことがあったのか。一日の終わりにさらに悲しみを意識しなければならないなんて、たしかにつらいはずだ。入浴剤の色によってさえ自分の悲しみを意識してしまうほど、今この人のこころはじくじくとして敏感になっているんだな。その入浴剤を溶かしたお湯には浸かりたくないよな…」と思った。しかし僕はどうしてそう読んだのだろう。一首の調べや旧仮名遣いの印象がそういうふうに読ませたのだ、と言えなくもない。でもそう断定することもできない。今日という楽しい一日を大切に保とうとする心の繊細が、震えるようなしかも落ち着いた調べと旧仮名遣いの印象を引き込んでいるともとらえられるのだ。

読み手の心を、まさに「鏡」となって精確に映してしまう歌がある。歌の傷・ブレということでなく、その傷・ブレに見える部分こそが中心となって、その一首をよく磨かれた鏡にしてしまう、そういう歌。もちろん、歌には多かれ少なかれそういう側面があるはずだけれど(いや、究極的にはどの歌もまさに「鏡」そのものなのだろうけれど)、この歌はその度合いがたいへんに高いのだと思う。ためらう理由にまず「悲しみ」を読んだ僕は、おそらく、この歌にまっさきに「悲しみ」を読みたくなるような心情的ななにかを抱えていたのだろう。ここには紹介できないけれど、今日の授業で6年生のとあるひとりは、このためらいの理由に「楽しさ」を挙げていた。説得力のあるすばらしい鑑賞文だった。「楽しさ」をためらいの理由として、その鑑賞文の中で、入浴剤の「悲しみを薄めたやうな色合ひ」はいかにも印象深くそこにあった。

全部剥がして土にする

生きている限りの未来どの場所に子の手を引けば助けられるか
だれもかれもが生きづらくなれば赤信号みんなで渡れば怖くないのか
コンクリート全部剥がして土にする土を耕すそして種を蒔く
花山周子「健康法」7首より

「現代短歌」2017年8月号、「テロ等準備罪」を詠む、という特集に発表された一連から。

〈未来〉とは、生者に与えられた特権なのかもしれない。
たとえ明日死んでしまうのだとしても、生きているその瞬間瞬間に、僕たちは〈今ここ〉を離れたその次の瞬間の未来を想定している。いや、もちろんそれは、意識にはのぼっていないことのほうが多い。けれども例えば、歩くという動作ひとつとっても、今この瞬間の身体が次の瞬間の〈未来〉を想定していなければ、脚の一歩一歩の動きの積み重ねとしての「歩く」は成り立ちえない。〈今ここ〉は次の〈今ここ〉に向けて準備された現在であり、僕たちはその先の〈未来〉を無意識に想定しながら生きている。ところが死者に〈未来〉はない。死んでしまったのだから当然ではある・・・もちろん、例えば、生者の記憶に残るかぎり、生者の変化に合わせて故人の人となりに対する解釈も、その生者において変化するから、そういう意味では死者だって〈未来〉に向けて変化しつづける。死者にも〈未来〉はある。けれども生きる主体として、生物として、死者はもう生者の想定するような〈未来〉を持ちえない。

掲出歌一首目の「生きている限りの未来」という二句を読んで、僕は以上のようなことを考えた。
これは、「生」というものが何であるのかを突き詰めて得られたあるひとつの思想、実感、というふうに捉えることができると思う。生きている限り〈未来〉はつづいてしまう。自分の向かう先へ先へと、〈未来〉が途方もなく連なっている。自分は今、生きている。だから〈未来〉を思う。〈未来〉に何が起きて、そこでどのように生きていくのか、生きるべきなのかを、生者であるからこそどうしても考えてしまう。無意識であっても〈未来〉を想定してしまう。そしてこの一首は、その〈未来〉における「子」の存在に意識を向けている。おそらく〈未来〉を楽観視していない。むしろ悲観している。だからこそその〈未来〉において「子」を助けるにはどうすればよいのか、ということを意識してしまうのだろう。〈未来〉を想定しているという点において、この人は今、まさに生きている。そして「子」を助けようとしている。
生者として「生きる」ということを引き受ける「覚悟」さえ、滲んでいるような気がする。

二首目、解釈するのはなかなか難しいのだが、皆が生きづらさを抱えたときに、赤信号をみんなで渡って怖くない、つまり無法状態が怖くないのだとすれば、それは、それ自体とても怖ろしいことだと僕は思う。一首目との関連で読んでみる。一首目が〈未来〉を悲観しているように見える、ということは、その〈未来〉において人は皆生きづらい生を送ることになるのだろう、と予想がつく。その生きづらさのなか、皆が「みんな」であるという理由で、本来なら守られてしかるべき一線を踏み越えてしまっている。集団心理が働いて、無法状態を受け入れてしまっている。生きづらさがそうさせている。最低限の倫理が無視され、皆が同じ方向に進んでいく。

上のようにまず二首について考えてみる。
その上で、何より大事なのは、この二首が「助けられるか」「怖くないのか」と「問う」ことに主眼を置いている点ではないか、と僕は考えた。悲観的に想定せざるをえない〈未来〉や、その〈未来〉に待ちかまえている恐怖を、一首としてただ説明・描写するだけでなく、その〈未来〉においてどうすれば「助けられるか」、本当にそれは「怖くないのか」と、説明・描写することを超えて、「問い」にしているのである。つまり、生者である以上は引き受けざるをえない〈未来〉を前にして、思考しつづけようとしているのだ。花山は生者として、思考停止に陥ることを拒んでいる。

そして三首目、前二首で思考しつづけることを自らに課したまま、花山は〈未来〉に対してあるひとつの態度をとる。「コンクリート全部剥がして土にする」のだという。今まさに花山の眼前にあるコンクリートだろうか、それとも、全世界に存在するコンクリートだろうか、それを全部剥がすのだという。現在形でそう述べている。
詳細を説明することは避けるが、日本語の現在形の機能は単に「現在」を記述するだけものではない。文脈・場面によってさまざまな意味を伝える。
コンクリートを剥がすこと自体、実際には個人の力ではどうにもならないことだ。それを考慮すれば、この「土にする」という現在形はおそらく、〈未来〉に対する主体の意志を表すものだと解釈できる。「意志をもってわたしはこれから(あるいは近い〈未来〉に)、コンクリートを全部剥がすつもりだ」と言っているのだと思う。そしてそこに現れた土を耕し、種を蒔くのだという。

客観的になって〈未来〉を単に予測し、その予測を説明・描写するのではなく、
主観的であることを手放さずに、自らの意志の伴う形で〈未来〉を想定している。


すこし別の話をする。
僕たちの身体は〈今ここ〉を離れることができない。現在、今この瞬間にとどまることしかできない。例えば、2分前の過去へ手を伸ばしてそこにあったコップに触れたりすることはできないし、3時間後に訪れる夜の闇を網膜をとおして見ることはできない。けれども、ある意味で心は、それができる。コップに二分前まで満たされていた水を思い出して、その透明度や冷たさを思い描くことができる。3時間後の夜を思って、過去に経験した夜を参照しながら、その闇の度合いを予測することができる。心は容易にそれをする。それが、想像する、ということだと思う。
そして同じく、〈過去〉や〈未来〉を描くことができるものがある。それは「言葉」だ。「さっきまでここにコップがあった。私はその中の水を飲んだ」「もうすぐ夜だ。今晩は冷えるだろう」などと、言葉は、〈過去〉や〈未来〉を描くことができる。

もちろん、これは不正確な説明を含むだろうし、こんな単純には説明しきれないものが身体・心・言葉には含まれるのだが、仮にざっくりとこのように説明してみて、掲出の三首に戻る。

この三首が僕には「楽観視することのできない〈未来〉を前にして言葉にできることは何か、短歌にできることは何か」と突き詰めて得られたひとつの答えのようにも思えるのだ。問いつづけること、そして、自らの意志を伴わせて〈未来〉を想定すること…それは「言葉」の性質をもってこそできることだ。〈今ここ〉を離れることのできる「言葉」だからこそできることだ。

問いの内容や、意志の内容もさることながら、この三首そのものが見せている方法そのもの(つまり、疑問形で収めていたり、強い意志を表す現在形をたたみかけていたりすることそのもの)が、生者として〈未来〉を生きるための方法として、花山に選ばれたものなのではないか。内容だけでなく、表現の枠組みそのものが、〈未来〉に対する強い祈りなのではないか。…蛇足だが、もちろん、〈未来〉への意志さえ方法として提出できればよいというものではない。例えば三首目、「コンクリート」という語の音や、それが指し示すモノとその質感、くりかえされる「土」という語の音、それが指し示すモノとその質感、結句の字余り、「蒔く」に至ってたったひとつ現れるM音の弾力等々が、この一首の意志の内容とその強さを支えていると僕は考える。

花山はおそらく、このたった三首で、短歌の可能性を広げてしまった。少なくとも、「社会詠」と呼ばれるものの領域を広げてしまった。…そのように言ってしまえるくらいの衝撃を、僕はこの三首から受けたのである。単に描写したり予測したりするにとどまらないのだ。そこには、不安に満ちた〈今ここ〉を生きながら、それでもなお、希望をもって〈未来〉を迎えようとする意志がある。意志を伴った身体がある。祈りがある。〈過去〉でも〈現在〉でもなく「生きている限りの未来」に意志をもって臨む歌に、僕は心底驚いている。

念のため付け加えておく。花山周子の歌を、掲出の三首をもって代表させるわけにはもちろんいかない。例えば角川「短歌」に連載中の「季節の歌」は、今回とはまた別の形でさまざまな感動を与えてくれる。毎月、短歌20首に加えて、エッセイもひとつ掲載される。一首一首を、月ごとの連作とエッセイを、そして連載の全体を詳細に誰かと語り合いたくなるほど、文章としてとことん評してみたくなるほど、僕はこの連載に惹かれている。けれどもそれはまた別の機会にと思う。

部屋を透きとおらしむ

ひとりの死ながくにれがみ冬過ぎて春過ぎてほのしろき粥となるまで
菊食べてしびるるごときつかのまを瞑目し部屋を透きとおらしむ
もはや父はむすうの蜻蛉せわしなくわが生涯の秋をながらう
内山晶太

「息のふくろ」(角川「短歌」2017年7月号)より。

なにかが集団で盛り上がっているようなときにそこから距離をとってしまう、ということが僕にはよくある。ふだんの生活において、SNSにおいて、その他どんな場でもそうだ。はたから見れば集団にまじっているようなときでさえ、その集団とうまくやっているように見えるときさえ、その集団の規模が大きくなればなるほど、気づくと心理的に距離をとっていることがある。これは別に無頼を気取ってかっこうつけているとか、集団が恐ろしいとか、そういったことによるものではない。幼い頃の「みんなの仲間に入りたいのに入れない、なんだかなじめない」という感じ(そんな経験、誰にでもあると思うのだが)がベースにあって、それをくりかえしているうちに、「入りたいのに入れない」のうちの「たい」という欲求の部分だけが消えて、「入れない」だけが〈型〉として残ってしまった、というのが実感に近い。そこに入れるものなら入りたい。けれども、眼前に〈集団〉が現れると、物理的にあるいは心理的に、たちまちのうちにごく自然と、その〈集団〉との距離が生まれてしまう。かといってそこにいるひとりひとりの人たちに親しみが湧かないとか、そこから早く離れたくなるとか、そういったことはまるでない。ふしぎな感覚だと思う。

そのようなことを、内山晶太の歌を読むたびに思う。みずからを取り巻く人・もの・ことからのどうしようもない距離があり、けれどもそのことはよろこびやかなしみといった類いを伴うことなく、ある〈型〉として定着している。

もちろんそれが作者(やら作中の人物やらなにやら)の実感とイコールであるかと言えば、それはあやしい。それは僕の、読者としての、ある〈感じ〉だ。

内山の歌は、周囲の人・もの・ことを感受したとき、その〈感じ〉を、視覚だけ、聴覚だけ、触覚だけ、あるいはイメージだけ、具体だけ、といったどれかひとつに集約させてしまわない歌だ。内山の歌によって人・もの・ことが感受されたとき、それが、自他の境界や感覚ごとの境界を不分明にしたところで姿をあらわす。

たったひとつの言葉で指し示されながら、歌があらわすのは、なんらかの〈全体〉である。

掲出歌について。
ある状況と感情が時を経て、「粥」としての実体、あるいは象徴性を帯びる。その段階で「ひとりの死」は、なにかひとつのことばで指し示せるような現象であることを止める。
ある味覚や嗅覚がみずからの体感のすべてに及ぶ。その全体が、しびれ、として表現される。それを、まぶたを閉じた暗がりのなかで、さらに研ぎ澄ます。その全体をもって、具体としての「部屋」そのものを変化させてしまう。もちろんこの「部屋」、あるいは部屋を透き通らせることそのもの、が具体を超えたなんらかの喩や象徴であってもよい。

内山の歌は、読者としての僕の体感や意識といったものを〈全体〉としてよみがえらせる。言葉の機能が世界の「分節化」であるならば、その分節の機能を用いながら、分節される以前の〈全体〉を再構成するという、とんでもないことをやってのける。しかもそれは観念によるものではない。「粥」や「部屋」という具体をもってそれを成立させる。余情や余韻、歌の奥行き、といったものとも違う。その感覚の、そして方法の独自性ゆえに、そしてそれがあまりにも微細で、全体的で、局所的であり、ユーモアさえ伴うがゆえに、僕は歌のなかに、たいへんに孤独なひとりを見る。どうしようもない〈型〉として、そこに孤独がある。しかしそれはさびしさやよろこびを伴う孤独ではない。それは、先に述べた、僕の実感している〈型〉とも、おそらくまったく違う。もっと純度を高めた孤独、と言いたくなる。「孤高」とはこのことか、と思う。

しかし「息のふくろ」の要となるのは、それがすべて父への挽歌であるということなのであり、また、そこにしずかに寄り添う感情なのであって、僕がここに記したような、歌のつくりそのものではない。

そして気づくのは、〈死〉〈死者〉という、あまりにも手触りの明確な、同時にまったく不明確なものと、内山の歌のなじみの良さだ。慎重に考えたいところではあるが、このことはきっと、内山の歌のつくりそのものと深くかかわっている。

「息のふくろ」は何度読んでも泣ける。上のような文章でなくほんとうは、全首を引いてもっと情緒的なところで鑑賞を書きたいくらいなのだが、それではなんだかいろいろとまずいと思うので、結局こういう文章になってしまった。この3首も本当は連作のなかでこそ生きるのだと思うけれど。

内山の歌については、まだまだ語り足りない。

青の缶、白の缶

金麦はかなしからずや青の缶、白の缶にも麦の絵揺れて
われの青、君の糖質オフの白 並べば夏の空のごとしも
田口綾子

 田口綾子「発泡酒」(「まひる野」2016.10)より。

「金麦」は発泡酒の名称(と、わざわざ注記するところがわたしいかにも下戸っぽいですが)。
 一首目は若山牧水の〈白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ〉をふまえているわけだが、この「かなしからずや」はちょっと難しい。わざわざひらがなにしているから、もしかしたら「愛(かな)し」で読んで、反語で意味をとって、「かわいらしくないことなんてあろうか、いや、たまらなくかわいらしい」といったふうに読むべきかもしれない。この場合、擬人化された「金麦」自身がそう思っているということではもちろんなくて、「金麦って、わたしたちにとって、ほんとにかわいらしいものですよね」というような話になる。あるいは、そのまま「哀し」で読んで、「正式なビールじゃないのに、たいそうな感じで麦の絵を掲げられてしまって、「金麦」も哀しいね」というようなことか。

 まあいずれにせよ、「金麦」最高! ということだと思う。

 さらに二首目も、牧水をふまえて読めばよいのだろう。ここではふたつの〈あお〉が対比されているのでなく、「青」と「白」が対比されている。通常のものと比べて糖質を75%カットしたという「金麦」の缶の色は、確かに白をベースにしています。
 牧水の歌においてふたつの〈あお〉は、近い色合いでありながらそれぞれ異なったものとして描かれている。「金麦」の青と白はもちろん、それよりも明らかに別々の色だ。
 
 その青の缶と白の缶、ふたつが並ぶと「夏の空」に見えるのだという。
 空のあざやかな青と、大きく立ちのぼる雲の白。

 ふたつの缶が、別々のふたりが、ひとつの景としてそこに現れるわけだ。

 ほとんど執着とも思えるような「金麦」に対する思い入れや、健康面で何か気にしているのか、「われ」とは違って「糖質オフ」の発泡酒を飲む「君」……たっぷりのユーモアの中に、明るくゆたかな関係性をもって「われ」と「君」とが提示されたのである。

 さらに余計なひと言を付け加えるなら、牧水のふたつの〈あお〉は、色が似通っていたからこそその違いがより際立ったのではないか、そして青の缶と白の缶は、あまりにも色が違うからこそひとつのものとして再定義できたのではないか、ということ。
 まったく異なった存在だからこそ、むしろひとつになることができる。そしてそれが〈ひとつ〉であるかどうかは、ふとした拍子に、自分たちの外側から眺められてはじめて自覚できることなのかもしれない。

 ふたりは別々のまま、混じり合うことなく、けれどもたしかにひとつに見える。
 目の前の小さな景が、夏の空となって、どこまでも広がっていく。

 ということでこれ、本当に素敵な恋の歌だなあと思って僕は読んだわけです。もちろん恋に限定する必要はないのですが。

 最後に、これらの歌を含む一連8首をすべて引いておく。田口さんの歌については、この一連の他にも引用して語りたいことがいくつかあるのだが、それはまた機会をあらためて。

   発泡酒
八月ののどに流せば夏の先へすこし冷えゆくビールと思ふ
秋立つといへば吹く風、秋立つと言はねば胸に留まれる風
プルタブを片手で起こすわれを見てかつこいいねと君は笑ひつ
金麦はかなしからずや青の缶、白の缶にも麦の絵揺れて
われの青、君の糖質オフの白 並べば夏の空のごとしも
宮城県名取市に君は納税しヱビスビールを一箱得たり
恵比須様も君もほほ笑みてゐたりけり金麦を馬鹿にするにあらねど
立秋のビールはのどを流れつつ夏から秋へ酔ひを運べり
田口綾子