掲載情報

〈2017年〉
・文章 「思い出とともに」(「現代短歌」11月号、特集三冊の本)
・文章 川口慈子『世界はこの体一つ分』栞文
・文章 大松達知『ぶどうのことば』書評(「現代短歌新聞」9月号)
・文章 斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』書評(「まひる野」9月号)
・文章 中野昭子『窓に寄る』書評(「ポトナム」8月号)
・短歌 「花言葉」(「Re:短歌」、森本直樹との共作8首)
・文章 「鰭のように揺れて」(角川「短歌」8月号、別冊付録「なぜ戦争はなくならないのか」)
・短歌 「赦す」7首(「現代短歌」8月号、特集「テロ等準備罪」を詠む)
・文章 今野寿美『歌ことば100』書評(「うた新聞」7月号)
・短歌 20首(森本直樹とのネットプリント「あの日のにゃん」)
・短歌 「引きかへす」9首、「肺魚」12首、「静かな日々」36首(個人紙「太朗九州①」)
・短歌 「ちぢむ」8首(「福岡歌会(仮)アンソロジー」vol.5)
・短歌 「恋」10首(「文學界」7月号、巻頭表現)
・文章 「〈時代〉と〈個〉の相克」(「まひる野」6月号、特集家族詠のゆくえ)
・文章 「選者を読む」(「短歌研究」6月号、特集詞華集を読む喜び、編むたのしさ)
・文章 「ひかりのうた」(読売新聞朝刊5月15日(月)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・短歌 「洞田明子」10首(「フワクタンカ①」)
・文章 「青春を詠む」(読売新聞朝刊5月1日(月)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「「イクメン」を超えて」(「現代短歌新聞」5月号、視点)
・短歌 「輝けば」7首(東京新聞夕刊4月22日(土)、詩歌への招待)
・文章 川﨑勝信編著『千代國一の風光』書評(「歌壇」5月号)
・文章 「思った以上」(読売新聞朝刊4月17日(月)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「幻想の絶景」(読売新聞朝刊4月11日(火)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「福岡短歌日記」(西日本新聞朝刊4月8日(土)、随筆喫茶 ※短歌と散文を組み合わせたエッセイです)
・文章 「読者の〈わたし〉の拡大」(日本歌人クラブ「風」第195号、新春競詠「わが輩は○○」寸感)
・文章 「目玉焼き」(「北冬」No.017、わたしの気になる《沖ななも》―。)
・短歌 「乱るれば」12首(「歌壇」4月号)
・文章 「2016年のベスト歌集・歌書」(「短歌往来」3月号、特集)
・短歌 「題詠「赤」「分」など」12首(「かばん」3月号)
・短歌 「あとは」12首(角川「短歌」3月号)
・文章 「方法意識について」(「井泉」1月号、リレー小論私が注目する最近の短歌表現の変化)


〈2016年〉
・文章 「技術」を読むということ(角川「短歌」12月号、特集短歌の「読み」を考える)
・文章 第65回源実朝を偲ぶ仲秋の名月伊豆山歌会記(角川「短歌」12月号)
・文章 大井学『サンクチュアリ』書評(「かりん」11月号)
・文章 歌評(「梧葉」秋号、特集子供をうたった歌―わたしのベスト3―)
・文章 「夏を過ぎても夏の光は」(朝日新聞10月17日(月)、歌壇俳壇欄「うたをよむ」)
・文章 「読者としてのプライド」(「現代短歌」11月号、特集わたしの誌面批評)
・文章 千代國一歌集『暮春』鑑賞(「国民文学」10月号、千代國一生誕百年特集号)
・短歌 「くだつた」5首(「うた新聞」10月号)
・文章 「「短歌」はどういう「詩」か」報告記(「歌壇」10月号)
・座談会 「変化は自然に」(角川「短歌」9月号、特集次の一歩を踏み出すために)
・現代うたのアンソロジー「薬」(「NHK短歌」9月号)
・短歌 「二十時頃」20首(「短歌研究」8月号)
・現代うたのアンソロジー「数」(「NHK短歌」8月号)
・文章 吉田隼人『忘却のための試論』書評(角川「短歌」7月号)
・短歌 「禁ずる」7首+エッセイ(「現代短歌」7月号、特集日本百名山を詠む)
・文章 「伊藤と小池の「読み」から考える」(「短歌往来」7月号、特集『土と人と星』&『思川の岸辺』)
・短歌 「卒業式」13首(「現代短歌新聞」6月号)
・短歌 「当然」12首(「歌壇」6月号)
・文章 「シンポジウムに参加して」(「短歌往来」3月号、今月の視点)
・文章 大口玲子『桜の木にのぼる人』書評(角川「短歌」2月号)
・文章 「吉川との対話は可能か」―吉川宏志の時評の立ち位置(「うた新聞」2月号、特集吉川宏志著『読みと他者』を読む)
・短歌 「先に死ぬ」12首+エッセイ(「短歌往来」1月号、特集若い世代の競詠)

(3月まで「NHK短歌」テキストに「こころ・ことば・からだ」を連載)
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歌集『人魚』評

第2歌集『人魚』(角川書店)について、歌集評や一首評等をいただいております。
そのつどこちらに紹介させていただきます。
どうもありがとうございます。

花山周子さん「アウトラインと空洞」(「塔」2017.9、短歌時評)
・武田穂佳さん「見つづけること―『人魚』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』―」(「まひる野」2017.9)
・柳宣宏さん「「からだ化」の可能性(「まひる野」2017.9)
・丸地卓也さん「歌集紹介」(「かりん」2017.8)
・中津昌子さん「『人魚』と『岸』」(角川「短歌」2017.8、歌壇時評)
・田中槐さん「「表皮」と痛みと」(「歌壇」2017.8、歌集・歌書の森)
・野住朋可さん「隣の芝生~短歌探訪~」(「奎」2017.6)
・井上美津子さん「歌の本棚」(「玉ゆら」2017夏 vol.57)
千坂麻緒さん「薔薇十字蕩尽社」
・川野里子さん「読みましたか?この一冊」(「現代短歌新聞」2017.7)
・上村典子さん「話題の歌集」(「NHK短歌」2017.7)
・虫武一俊さん「怒りの熱」(「うた新聞」2017.6)
ukaji akikoさん「Sugarless」
塚田千束さん「嵐が丘に取り残されて」
・濱松哲朗さん「感情が突沸する時」(「塔」2017.5、歌集・歌書探訪)
・田村元さん「『人魚』の四句切れの歌について」(「りとむ」2017.5、時評)
・松村由利子さん「虚実の狭間にて」(「びーぐる」第35号、短歌時評)
・太田青磁さん「Book Review」(「短歌人」2017.5)
・水上芙季さん「最近刊歌集・歌書評・共選」(「短歌研究」2017.5)
・錦見映理子さん「激情のおもむく所」(「短歌往来」2017.5)
・岡崎裕美子さん「今月の歌」(「未来」2017.4)
・後藤明日香さん「週刊図書館」(「週刊朝日」2017年4月28日号)
・野口あや子さん「小さな選択こそが」(「現代詩手帖」2017.4、うたの聴こえるところまで)
・小島なおさん「気になるホン・ほん・本」(「コスモス」2017.4)
・三浦柳さん「書肆『星座』」(「星座」2017年春虹号)
・松平盟子さん「真珠時間」(「プチ☆モンド」No.96)
・松村由利子さん「『人魚』という事件」(朝日新聞朝刊2017.3.20、短歌時評)
・俵万智さん「新々句歌歳時記」(「週刊新潮」2017年3月9日号)
・松村正直さん「感情そのもの」(「現代短歌新聞」2017.3)
時明さん「時明ブログ」
光森裕樹さん「日々のクオリア」(砂子屋書房ホームページ、一首鑑賞)
・東直子さん「作品の深み増す30代 光森裕樹と染野太朗」(共同通信配信2017.2、短歌はいま)
・穂村弘さん「細部の味」(「週刊文春」2017年2月16日号、私の読書日記)
・光森裕樹さん「「豊かさ」の共有を」(東京新聞夕刊2017.1.14、短歌月評)
松村正直さん「やさしい鮫日記」
桜川冴子さん「桜川冴子の0時間目の短歌」
高木佳子さん「壜」
内山晶太さん「うたのホログラム」(砂子屋書房ホームページ、月のコラム)
恒成美代子さん「暦日夕焼け通信」
鈴木竹志さん「竹の子日記」

その他、ツイッター等でも歌を引用していただいたり批評をいただいたりしています。

全部剥がして土にする

生きている限りの未来どの場所に子の手を引けば助けられるか
だれもかれもが生きづらくなれば赤信号みんなで渡れば怖くないのか
コンクリート全部剥がして土にする土を耕すそして種を蒔く
花山周子「健康法」7首より

「現代短歌」2017年8月号、「テロ等準備罪」を詠む、という特集に発表された一連から。

〈未来〉とは、生者に与えられた特権なのかもしれない。
たとえ明日死んでしまうのだとしても、生きているその瞬間瞬間に、僕たちは〈今ここ〉を離れたその次の瞬間の未来を想定している。いや、もちろんそれは、意識にはのぼっていないことのほうが多い。けれども例えば、歩くという動作ひとつとっても、今この瞬間の身体が次の瞬間の〈未来〉を想定していなければ、脚の一歩一歩の動きの積み重ねとしての「歩く」は成り立ちえない。〈今ここ〉は次の〈今ここ〉に向けて準備された現在であり、僕たちはその先の〈未来〉を無意識に想定しながら生きている。ところが死者に〈未来〉はない。死んでしまったのだから当然ではある・・・もちろん、例えば、生者の記憶に残るかぎり、生者の変化に合わせて故人の人となりに対する解釈も、その生者において変化するから、そういう意味では死者だって〈未来〉に向けて変化しつづける。死者にも〈未来〉はある。けれども生きる主体として、生物として、死者はもう生者の想定するような〈未来〉を持ちえない。

掲出歌一首目の「生きている限りの未来」という二句を読んで、僕は以上のようなことを考えた。
これは、「生」というものが何であるのかを突き詰めて得られたあるひとつの思想、実感、というふうに捉えることができると思う。生きている限り〈未来〉はつづいてしまう。自分の向かう先へ先へと、〈未来〉が途方もなく連なっている。自分は今、生きている。だから〈未来〉を思う。〈未来〉に何が起きて、そこでどのように生きていくのか、生きるべきなのかを、生者であるからこそどうしても考えてしまう。無意識であっても〈未来〉を想定してしまう。そしてこの一首は、その〈未来〉における「子」の存在に意識を向けている。おそらく〈未来〉を楽観視していない。むしろ悲観している。だからこそその〈未来〉において「子」を助けるにはどうすればよいのか、ということを意識してしまうのだろう。〈未来〉を想定しているという点において、この人は今、まさに生きている。そして「子」を助けようとしている。
生者として「生きる」ということを引き受ける「覚悟」さえ、滲んでいるような気がする。

二首目、解釈するのはなかなか難しいのだが、皆が生きづらさを抱えたときに、赤信号をみんなで渡って怖くない、つまり無法状態が怖くないのだとすれば、それは、それ自体とても怖ろしいことだと僕は思う。一首目との関連で読んでみる。一首目が〈未来〉を悲観しているように見える、ということは、その〈未来〉において人は皆生きづらい生を送ることになるのだろう、と予想がつく。その生きづらさのなか、皆が「みんな」であるという理由で、本来なら守られてしかるべき一線を踏み越えてしまっている。集団心理が働いて、無法状態を受け入れてしまっている。生きづらさがそうさせている。最低限の倫理が無視され、皆が同じ方向に進んでいく。

上のようにまず二首について考えてみる。
その上で、何より大事なのは、この二首が「助けられるか」「怖くないのか」と「問う」ことに主眼を置いている点ではないか、と僕は考えた。悲観的に想定せざるをえない〈未来〉や、その〈未来〉に待ちかまえている恐怖を、一首としてただ説明・描写するだけでなく、その〈未来〉においてどうすれば「助けられるか」、本当にそれは「怖くないのか」と、説明・描写することを超えて、「問い」にしているのである。つまり、生者である以上は引き受けざるをえない〈未来〉を前にして、思考しつづけようとしているのだ。花山は生者として、思考停止に陥ることを拒んでいる。

そして三首目、前二首で思考しつづけることを自らに課したまま、花山は〈未来〉に対してあるひとつの態度をとる。「コンクリート全部剥がして土にする」のだという。今まさに花山の眼前にあるコンクリートだろうか、それとも、全世界に存在するコンクリートだろうか、それを全部剥がすのだという。現在形でそう述べている。
詳細を説明することは避けるが、日本語の現在形の機能は単に「現在」を記述するだけものではない。文脈・場面によってさまざまな意味を伝える。
コンクリートを剥がすこと自体、実際には個人の力ではどうにもならないことだ。それを考慮すれば、この「土にする」という現在形はおそらく、〈未来〉に対する主体の意志を表すものだと解釈できる。「意志をもってわたしはこれから(あるいは近い〈未来〉に)、コンクリートを全部剥がすつもりだ」と言っているのだと思う。そしてそこに現れた土を耕し、種を蒔くのだという。

客観的になって〈未来〉を単に予測し、その予測を説明・描写するのではなく、
主観的であることを手放さずに、自らの意志の伴う形で〈未来〉を想定している。


すこし別の話をする。
僕たちの身体は〈今ここ〉を離れることができない。現在、今この瞬間にとどまることしかできない。例えば、2分前の過去へ手を伸ばしてそこにあったコップに触れたりすることはできないし、3時間後に訪れる夜の闇を網膜をとおして見ることはできない。けれども、ある意味で心は、それができる。コップに二分前まで満たされていた水を思い出して、その透明度や冷たさを思い描くことができる。3時間後の夜を思って、過去に経験した夜を参照しながら、その闇の度合いを予測することができる。心は容易にそれをする。それが、想像する、ということだと思う。
そして同じく、〈過去〉や〈未来〉を描くことができるものがある。それは「言葉」だ。「さっきまでここにコップがあった。私はその中の水を飲んだ」「もうすぐ夜だ。今晩は冷えるだろう」などと、言葉は、〈過去〉や〈未来〉を描くことができる。

もちろん、これは不正確な説明を含むだろうし、こんな単純には説明しきれないものが身体・心・言葉には含まれるのだが、仮にざっくりとこのように説明してみて、掲出の三首に戻る。

この三首が僕には「楽観視することのできない〈未来〉を前にして言葉にできることは何か、短歌にできることは何か」と突き詰めて得られたひとつの答えのようにも思えるのだ。問いつづけること、そして、自らの意志を伴わせて〈未来〉を想定すること…それは「言葉」の性質をもってこそできることだ。〈今ここ〉を離れることのできる「言葉」だからこそできることだ。

問いの内容や、意志の内容もさることながら、この三首そのものが見せている方法そのもの(つまり、疑問形で収めていたり、強い意志を表す現在形をたたみかけていたりすることそのもの)が、生者として〈未来〉を生きるための方法として、花山に選ばれたものなのではないか。内容だけでなく、表現の枠組みそのものが、〈未来〉に対する強い祈りなのではないか。…蛇足だが、もちろん、〈未来〉への意志さえ方法として提出できればよいというものではない。例えば三首目、「コンクリート」という語の音や、それが指し示すモノとその質感、くりかえされる「土」という語の音、それが指し示すモノとその質感、結句の字余り、「蒔く」に至ってたったひとつ現れるM音の弾力等々が、この一首の意志の内容とその強さを支えていると僕は考える。

花山はおそらく、このたった三首で、短歌の可能性を広げてしまった。少なくとも、「社会詠」と呼ばれるものの領域を広げてしまった。…そのように言ってしまえるくらいの衝撃を、僕はこの三首から受けたのである。単に描写したり予測したりするにとどまらないのだ。そこには、不安に満ちた〈今ここ〉を生きながら、それでもなお、希望をもって〈未来〉を迎えようとする意志がある。意志を伴った身体がある。祈りがある。〈過去〉でも〈現在〉でもなく「生きている限りの未来」に意志をもって臨む歌に、僕は心底驚いている。

念のため付け加えておく。花山周子の歌を、掲出の三首をもって代表させるわけにはもちろんいかない。例えば角川「短歌」に連載中の「季節の歌」は、今回とはまた別の形でさまざまな感動を与えてくれる。毎月、短歌20首に加えて、エッセイもひとつ掲載される。一首一首を、月ごとの連作とエッセイを、そして連載の全体を詳細に誰かと語り合いたくなるほど、文章としてとことん評してみたくなるほど、僕はこの連載に惹かれている。けれどもそれはまた別の機会にと思う。