部屋を透きとおらしむ

ひとりの死ながくにれがみ冬過ぎて春過ぎてほのしろき粥となるまで
菊食べてしびるるごときつかのまを瞑目し部屋を透きとおらしむ
もはや父はむすうの蜻蛉せわしなくわが生涯の秋をながらう
内山晶太

「息のふくろ」(角川「短歌」2017年7月号)より。

なにかが集団で盛り上がっているようなときにそこから距離をとってしまう、ということが僕にはよくある。ふだんの生活において、SNSにおいて、その他どんな場でもそうだ。はたから見れば集団にまじっているようなときでさえ、その集団とうまくやっているように見えるときさえ、その集団の規模が大きくなればなるほど、気づくと心理的に距離をとっていることがある。これは別に無頼を気取ってかっこうつけているとか、集団が恐ろしいとか、そういったことによるものではない。幼い頃の「みんなの仲間に入りたいのに入れない、なんだかなじめない」という感じ(そんな経験、誰にでもあると思うのだが)がベースにあって、それをくりかえしているうちに、「入りたいのに入れない」のうちの「たい」という欲求の部分だけが消えて、「入れない」だけが〈型〉として残ってしまった、というのが実感に近い。そこに入れるものなら入りたい。けれども、眼前に〈集団〉が現れると、物理的にあるいは心理的に、たちまちのうちにごく自然と、その〈集団〉との距離が生まれてしまう。かといってそこにいるひとりひとりの人たちに親しみが湧かないとか、そこから早く離れたくなるとか、そういったことはまるでない。ふしぎな感覚だと思う。

そのようなことを、内山晶太の歌を読むたびに思う。みずからを取り巻く人・もの・ことからのどうしようもない距離があり、けれどもそのことはよろこびやかなしみといった類いを伴うことなく、ある〈型〉として定着している。

もちろんそれが作者(やら作中の人物やらなにやら)の実感とイコールであるかと言えば、それはあやしい。それは僕の、読者としての、ある〈感じ〉だ。

内山の歌は、周囲の人・もの・ことを感受したとき、その〈感じ〉を、視覚だけ、聴覚だけ、触覚だけ、あるいはイメージだけ、具体だけ、といったどれかひとつに集約させてしまわない歌だ。内山の歌によって人・もの・ことが感受されたとき、それが、自他の境界や感覚ごとの境界を不分明にしたところで姿をあらわす。

たったひとつの言葉で指し示されながら、歌があらわすのは、なんらかの〈全体〉である。

掲出歌について。
ある状況と感情が時を経て、「粥」としての実体、あるいは象徴性を帯びる。その段階で「ひとりの死」は、なにかひとつのことばで指し示せるような現象であることを止める。
ある味覚や嗅覚がみずからの体感のすべてに及ぶ。その全体が、しびれ、として表現される。それを、まぶたを閉じた暗がりのなかで、さらに研ぎ澄ます。その全体をもって、具体としての「部屋」そのものを変化させてしまう。もちろんこの「部屋」、あるいは部屋を透き通らせることそのもの、が具体を超えたなんらかの喩や象徴であってもよい。

内山の歌は、読者としての僕の体感や意識といったものを〈全体〉としてよみがえらせる。言葉の機能が世界の「分節化」であるならば、その分節の機能を用いながら、分節される以前の〈全体〉を再構成するという、とんでもないことをやってのける。しかもそれは観念によるものではない。「粥」や「部屋」という具体をもってそれを成立させる。余情や余韻、歌の奥行き、といったものとも違う。その感覚の、そして方法の独自性ゆえに、そしてそれがあまりにも微細で、全体的で、局所的であり、ユーモアさえ伴うがゆえに、僕は歌のなかに、たいへんに孤独なひとりを見る。どうしようもない〈型〉として、そこに孤独がある。しかしそれはさびしさやよろこびを伴う孤独ではない。それは、先に述べた、僕の実感している〈型〉とも、おそらくまったく違う。もっと純度を高めた孤独、と言いたくなる。「孤高」とはこのことか、と思う。

しかし「息のふくろ」の要となるのは、それがすべて父への挽歌であるということなのであり、また、そこにしずかに寄り添う感情なのであって、僕がここに記したような、歌のつくりそのものではない。

そして気づくのは、〈死〉〈死者〉という、あまりにも手触りの明確な、同時にまったく不明確なものと、内山の歌のなじみの良さだ。慎重に考えたいところではあるが、このことはきっと、内山の歌のつくりそのものと深くかかわっている。

「息のふくろ」は何度読んでも泣ける。上のような文章でなくほんとうは、全首を引いてもっと情緒的なところで鑑賞を書きたいくらいなのだが、それではなんだかいろいろとまずいと思うので、結局こういう文章になってしまった。この3首も本当は連作のなかでこそ生きるのだと思うけれど。

内山の歌については、まだまだ語り足りない。
スポンサーサイト