全部剥がして土にする

生きている限りの未来どの場所に子の手を引けば助けられるか
だれもかれもが生きづらくなれば赤信号みんなで渡れば怖くないのか
コンクリート全部剥がして土にする土を耕すそして種を蒔く
花山周子「健康法」7首より

「現代短歌」2017年8月号、「テロ等準備罪」を詠む、という特集に発表された一連から。

〈未来〉とは、生者に与えられた特権なのかもしれない。
たとえ明日死んでしまうのだとしても、生きているその瞬間瞬間に、僕たちは〈今ここ〉を離れたその次の瞬間の未来を想定している。いや、もちろんそれは、意識にはのぼっていないことのほうが多い。けれども例えば、歩くという動作ひとつとっても、今この瞬間の身体が次の瞬間の〈未来〉を想定していなければ、脚の一歩一歩の動きの積み重ねとしての「歩く」は成り立ちえない。〈今ここ〉は次の〈今ここ〉に向けて準備された現在であり、僕たちはその先の〈未来〉を無意識に想定しながら生きている。ところが死者に〈未来〉はない。死んでしまったのだから当然ではある・・・もちろん、例えば、生者の記憶に残るかぎり、生者の変化に合わせて故人の人となりに対する解釈も、その生者において変化するから、そういう意味では死者だって〈未来〉に向けて変化しつづける。死者にも〈未来〉はある。けれども生きる主体として、生物として、死者はもう生者の想定するような〈未来〉を持ちえない。

掲出歌一首目の「生きている限りの未来」という二句を読んで、僕は以上のようなことを考えた。
これは、「生」というものが何であるのかを突き詰めて得られたあるひとつの思想、実感、というふうに捉えることができると思う。生きている限り〈未来〉はつづいてしまう。自分の向かう先へ先へと、〈未来〉が途方もなく連なっている。自分は今、生きている。だから〈未来〉を思う。〈未来〉に何が起きて、そこでどのように生きていくのか、生きるべきなのかを、生者であるからこそどうしても考えてしまう。無意識であっても〈未来〉を想定してしまう。そしてこの一首は、その〈未来〉における「子」の存在に意識を向けている。おそらく〈未来〉を楽観視していない。むしろ悲観している。だからこそその〈未来〉において「子」を助けるにはどうすればよいのか、ということを意識してしまうのだろう。〈未来〉を想定しているという点において、この人は今、まさに生きている。そして「子」を助けようとしている。
生者として「生きる」ということを引き受ける「覚悟」さえ、滲んでいるような気がする。

二首目、解釈するのはなかなか難しいのだが、皆が生きづらさを抱えたときに、赤信号をみんなで渡って怖くない、つまり無法状態が怖くないのだとすれば、それは、それ自体とても怖ろしいことだと僕は思う。一首目との関連で読んでみる。一首目が〈未来〉を悲観しているように見える、ということは、その〈未来〉において人は皆生きづらい生を送ることになるのだろう、と予想がつく。その生きづらさのなか、皆が「みんな」であるという理由で、本来なら守られてしかるべき一線を踏み越えてしまっている。集団心理が働いて、無法状態を受け入れてしまっている。生きづらさがそうさせている。最低限の倫理が無視され、皆が同じ方向に進んでいく。

上のようにまず二首について考えてみる。
その上で、何より大事なのは、この二首が「助けられるか」「怖くないのか」と「問う」ことに主眼を置いている点ではないか、と僕は考えた。悲観的に想定せざるをえない〈未来〉や、その〈未来〉に待ちかまえている恐怖を、一首としてただ説明・描写するだけでなく、その〈未来〉においてどうすれば「助けられるか」、本当にそれは「怖くないのか」と、説明・描写することを超えて、「問い」にしているのである。つまり、生者である以上は引き受けざるをえない〈未来〉を前にして、思考しつづけようとしているのだ。花山は生者として、思考停止に陥ることを拒んでいる。

そして三首目、前二首で思考しつづけることを自らに課したまま、花山は〈未来〉に対してあるひとつの態度をとる。「コンクリート全部剥がして土にする」のだという。今まさに花山の眼前にあるコンクリートだろうか、それとも、全世界に存在するコンクリートだろうか、それを全部剥がすのだという。現在形でそう述べている。
詳細を説明することは避けるが、日本語の現在形の機能は単に「現在」を記述するだけものではない。文脈・場面によってさまざまな意味を伝える。
コンクリートを剥がすこと自体、実際には個人の力ではどうにもならないことだ。それを考慮すれば、この「土にする」という現在形はおそらく、〈未来〉に対する主体の意志を表すものだと解釈できる。「意志をもってわたしはこれから(あるいは近い〈未来〉に)、コンクリートを全部剥がすつもりだ」と言っているのだと思う。そしてそこに現れた土を耕し、種を蒔くのだという。

客観的になって〈未来〉を単に予測し、その予測を説明・描写するのではなく、
主観的であることを手放さずに、自らの意志の伴う形で〈未来〉を想定している。


すこし別の話をする。
僕たちの身体は〈今ここ〉を離れることができない。現在、今この瞬間にとどまることしかできない。例えば、2分前の過去へ手を伸ばしてそこにあったコップに触れたりすることはできないし、3時間後に訪れる夜の闇を網膜をとおして見ることはできない。けれども、ある意味で心は、それができる。コップに二分前まで満たされていた水を思い出して、その透明度や冷たさを思い描くことができる。3時間後の夜を思って、過去に経験した夜を参照しながら、その闇の度合いを予測することができる。心は容易にそれをする。それが、想像する、ということだと思う。
そして同じく、〈過去〉や〈未来〉を描くことができるものがある。それは「言葉」だ。「さっきまでここにコップがあった。私はその中の水を飲んだ」「もうすぐ夜だ。今晩は冷えるだろう」などと、言葉は、〈過去〉や〈未来〉を描くことができる。

もちろん、これは不正確な説明を含むだろうし、こんな単純には説明しきれないものが身体・心・言葉には含まれるのだが、仮にざっくりとこのように説明してみて、掲出の三首に戻る。

この三首が僕には「楽観視することのできない〈未来〉を前にして言葉にできることは何か、短歌にできることは何か」と突き詰めて得られたひとつの答えのようにも思えるのだ。問いつづけること、そして、自らの意志を伴わせて〈未来〉を想定すること…それは「言葉」の性質をもってこそできることだ。〈今ここ〉を離れることのできる「言葉」だからこそできることだ。

問いの内容や、意志の内容もさることながら、この三首そのものが見せている方法そのもの(つまり、疑問形で収めていたり、強い意志を表す現在形をたたみかけていたりすることそのもの)が、生者として〈未来〉を生きるための方法として、花山に選ばれたものなのではないか。内容だけでなく、表現の枠組みそのものが、〈未来〉に対する強い祈りなのではないか。…蛇足だが、もちろん、〈未来〉への意志さえ方法として提出できればよいというものではない。例えば三首目、「コンクリート」という語の音や、それが指し示すモノとその質感、くりかえされる「土」という語の音、それが指し示すモノとその質感、結句の字余り、「蒔く」に至ってたったひとつ現れるM音の弾力等々が、この一首の意志の内容とその強さを支えていると僕は考える。

花山はおそらく、このたった三首で、短歌の可能性を広げてしまった。少なくとも、「社会詠」と呼ばれるものの領域を広げてしまった。…そのように言ってしまえるくらいの衝撃を、僕はこの三首から受けたのである。単に描写したり予測したりするにとどまらないのだ。そこには、不安に満ちた〈今ここ〉を生きながら、それでもなお、希望をもって〈未来〉を迎えようとする意志がある。意志を伴った身体がある。祈りがある。〈過去〉でも〈現在〉でもなく「生きている限りの未来」に意志をもって臨む歌に、僕は心底驚いている。

念のため付け加えておく。花山周子の歌を、掲出の三首をもって代表させるわけにはもちろんいかない。例えば角川「短歌」に連載中の「季節の歌」は、今回とはまた別の形でさまざまな感動を与えてくれる。毎月、短歌20首に加えて、エッセイもひとつ掲載される。一首一首を、月ごとの連作とエッセイを、そして連載の全体を詳細に誰かと語り合いたくなるほど、文章としてとことん評してみたくなるほど、僕はこの連載に惹かれている。けれどもそれはまた別の機会にと思う。
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