祈るとは

祈るとは立ち止まること明日われがなくても回る地球の上に
武田穂佳

 2015年度NHK短歌の投稿歌。題は「祈る」。昨年、武田さんはまだ高校3年生だった。

「祈るとは立ち止まること」。どういうことだろうか。よく考えてみるといまいちわからない。わからないのだが、これだけでも妙な説得力がある。「〇〇とは~こと」という格言のような断言にはインパクトがあるし、目をつむってじっと祈る姿は「立ち止まる」という形容を無理なく受け入れる。だからすぐに僕は「たしかに、祈るって立ち止まることだよなあ」となんとなく思ってしまった。そして三句目以降。「明日」という語はつまり未来を指すわけだが、そこに「われ」が「ない」ことを仮定している。「いない」ではなく「ない」。自分がモノ化している。自分を卑下しているかのような措辞だ。その直後、視野は一気に「地球」へと広がる。視線が駆け上がる。あまりの唐突さに、イメージが追いつかない。なんだかとても小さいサイズの地球のような気もしてくる。卓上の地球儀のような。概念と具体の中間地点にあるかのような「地球」。

 地球よりも、モノと化した「われ」のほうが、よほど大きいような気がしてくる。

 実はいまだに、この一首の読みを確定できていない。「立ち止まる」が表すはずの感情や意思が、はっきりしないのだ。自分なんていなくても〈よのなか〉はうごいていくけれども、そこになんとか抵抗したい、それでも祈らずにいられない、という強い気持ちなのか、それとも、自分がいくら意志をもって何かを実現しよう、得ようとしても、そもそもそれは取るに足りないことなのだ、と諦めているのか。「~こと」という二句切れの潔さや簡潔な調べに導かれて、僕は前者の読みをしたくなるけれど、確証はない。

 と、ここまで読んで、ああ、どっちもなのだろうな、と思う。この歌は強い意志と諦めを、同時に読者に手渡すことができる歌なのだ。矛盾を矛盾なく成立させる歌なのだ。「立ち止まること」という断言は、断言でありながら、そこに自信のなさも断念も滲ませている。いや、矛盾、ってつまり理屈や概念であって、具体的な現実のレベルで考えれば、そんなものはこの世に存在しないんじゃないか、なんてことまで考えたくなる。

 そしてここで、この歌の「祈る」は、単なる神頼みとはまったく異質のものとなる。それは、「明日」という現実や自分自身を明確に捉えるための、立派な〈行動〉なのかもしれない。この一首そのものがまさに祈りなのだ……と言ったらできすぎなのだろうけれども。
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