つなぐ手の

つなぐ手の汗も愛、つてことにして たぶんきみは雨の日に生まれた
吉田隼人

 吉田隼人歌集『忘却のための試論』より。

 手をつなぐときに緊張してしまって、自分は手に汗をかいてしまう。でもそれは愛ゆえなのだ、ということにする。愛があるからこそ過剰に意識してしまうのだ。そのように濡れている自分の手から、連想は雨に及ぶ。きみはたぶん雨の日に生まれたのだ、と直感する。きみが引き連れている雨によって、この手が濡れているのだ。

 という感じに解釈してみて、君の生まれた日にまで遡ってしまう発想がいかにも恋だなあ、というふうにも言っておきたくなる。

「つなぐ手の汗も愛」はあたかも一般論のようにひびくのだが、「、つてことにして」によってそれは、絶対的なものでない、相対化された個人の声に回収される。「、」によるかるい切断が、その二段構えを可能にする。次の一字空けは、下句への踏切板のようになっていて、きみが雨の日に生まれたことによって自分の手が濡れているという、唐突に見出される詩情を十分に活かす。きみが生まれた日にまで時空を越えて遡る、その飛躍を受け止める一字空け。そして下句の破調は、上句と対比したとき、ちょっと早口でトーンの質が異なる。しっとりとした、しかも俯瞰に立った詩情が浮きあがる。上句から下句への転調をもこの一字空けは準備する。また、「、つてことにして」というかろやかなフレーズを呼び出す余裕があるからこそ、主体は緊張に溺れず、下句のゆたかな詩情に至ったのだ、といったことも考えることができるかもしれない。
それから、一首全体に「ア」の音が目立つのだが、だから明るいとか開放的とか、そういうことは安易に言えない気がする。そのあたりもちょっとおもしろい一首だと思う。

 と、こじつけのようにしつこく構造を読んでおいてアレだが、でもこの恋の歌について、僕の興味はすこし違うところにある。

 僕は最初に「手をつなぐときに緊張してしまって、自分は手に汗をかいてしまう」と記したが、これ、そもそも自分の手なんだろうか。きみの手、とは読めないだろうか。きみの手の汗がそのまま、きみが生まれた日の雨、という読み方。結果的に自分の手も濡れるのだろうが、そもそも汗をかいていたのはきみ、という読み方である。

 この「手」は主体の手でもきみの手でもあるように、僕には見える。「ふたりのひとつの手」が見える、とでも言えばよいだろうか、明らかに別々の手がつながれているはずなのに、ことばとしてあらわれたときのそれは、両者を区別できない。ひとつでもある。あるいは、読者として読み返すたびに、主体と「きみ」との間で反転をくりかえす手、というような。
 この歌の「手」には、恋愛におけるそういった、自他の区別がなくなるというか、それを求めてしまうような心情にも寄り添う、不思議な魅力があるように思うのだ。
スポンサーサイト