それを下さい

左より三つめのそれ 咲ききるをためらうごときそれを下さい
中野昭子

 中野昭子『躓く家鴨』(1987年)より。

 今日こそは本当に短くまとめたい。

 この歌はそのまま、花屋での発話だと考えればよい。自分からちょっと遠いところにある花を、買おうとしている。

 この歌には非常におかしなところがある。現代短歌文庫の『中野昭子歌集』の中で花山周子さんは次のように指摘している。

「日常から直接台詞を切り抜いてきたような体裁を取りながら、しかも違和感限りない。口語文体に「左より」「咲ききるをためらうごとき」という文語調が差し挟まれているためでもあろうが、「咲ききるをためらうごとき」という内容への比重のかけ方が一首のトーンを歪めている。「ひらきかけの蕾」などとさらっと言えそうなところ、妙な圧力がかかるのだ」(「第一歌集『躓く家鴨』によせて」より)

 そう言って花山さんはそのまま中野昭子論を展開していくのだが、僕はとりあえずこの一首にとどまる。

 僕は最初、その「妙な圧力」を感じとることができなかった。初読では、日常にも発話され得ることばとして違和感なくこれを受け取ってしまった。別の文章で引用する機会があって、この一首をじっと見つめているうちに「なんか変だ」と思い、その違和感を手がかりに言葉の中に分け入ってはじめて、花山さんの言う「妙な圧力」に行きついた。もちろん、「咲ききるをためらうごとき」に詩情があって、そこに発話者の心情(ためらうようなその花への共感なのか、あるいはそれを自分のものにしてしまうところに暴力性があるのか、そのあたりの感受の仕方は読者によって異なるだろうが)を読むことはできたつもりだ。けれども、少なくとも、文体上の違和を感じとることはできなかった。それで、自分はずいぶんと、短歌の「文語口語混交文体」(と安易に言っていいのかはわからないけれども)に慣れてしまっているんだなと思った。自分のそういう「短歌脳」みたいなものが本当に嫌だった。文体に対する感度がかえって低くなっている、というか。

 短く終わらない気がしている。

 で、そのように嫌なんですけれども、文体上の具体的な問題はとりあえず脇に置いて、その上で、この歌が僕にとって不思議なのは、あえて誤解を招く言い方をするけれども、じゃあなぜ内容に関して僕はこれを「短歌的」に読めないのだろうか、ということだった。「それ」とか「ためらうごとき」とかいうふうに、象徴性を呼び込みやすい描き方がされているのに、僕は「それ」を「花」としか読めない。花屋で花を買おうとしている場面にしか思えない。生とか死とか恋とか愛とか、何か〈人間的〉な営みについて「下さい」と言っているとは読めない。つまり、暗喩の一首として読めない、ということだ。「咲く」という動詞は基本的に「花」に対して使われるから、この語が読みの可能性を「花」に限定してしまうのかとも考えたのだが、あるいは、「左より」という空間的位置を示す言葉や「三つ」という数え方が、暗喩としての読みを排してあくまでも具体物へ読者の想像を引き留めているのかとも思ったのだが、そういうふうに、語単位で考えていけばいくほど、むしろ、暗喩の一首として読めるような気がしてくる。「咲く」も「左より」も「三つ」ももちろん、花以外のものについて大いに使用することができるわけだから。

 にもかかわらず、そう読めない。

 短く終わらない。むしろいつもより長い。

 つまり僕はこの一首について、「短歌的」に想像を広げていけないのである。「花屋での場面を借りて人生に直結する箴言的な何かを引き出している一首」「死とか恋とかいったものの何か一般的なありようを示している一首」として読めない。暗喩の一首として読めない。「それ」は花であって、この一首は「花屋」でのやりとりの一部だ、としか思えない。

 と、ここまで考えて、僕はまったく自分の読みに自信がなくなる。暗喩の一首として読める読者もいるんじゃないか。そもそも僕は文体上の「妙な圧力」を感じ取れなかった、ということはそもそも何かを決定的に見落としているんじゃないか、暗喩の読みができないにしても「それ=花」と読まずに、別の具体物を想像する読者もいるんじゃないか、いやそういう読者の方が多いんじゃないか、と自信がなくなる。

 まったく自信がなくなる。読者一般でなく、ごく個人的な読者としての自分しか見えなくなる。この歌の前で孤立するような感覚をおぼえる。

 そしてここで、「それ」が何なのか、わからなくなってしまう。「それ」が「それ」のまま、歌の中で立っている。花でさえなくなってしまう。
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