剝がれなくたつていい

花びらを上唇にくつつけて一生剝がれなくたつていい
田村元

 田村元歌集『北二十二条西七丁目』より。2002年第13回歌壇賞受賞作「上唇に花びらを」の一首でもある。

 田村はかつて僕の第一歌集についてこんなふうに書いていた。そこには「読み終えた後、しばらく茫然としてしまい、これはどうしたものかと考えたあげく、変なライバル意識は捨てて、染野太朗のファンになることにしたのである」などとあったけれど、それに対して僕は、ふざけるなよ、と思っていた。ライバル意識というか、とにかく悔しいなあと思ったのはこっちが先で、いや、悔しいを通り越して「同い年にはすごい奴がいるんだなあ」と、それこそ茫然としたのである。自分にはとても作れそうもないその歌壇賞受賞作を、早稲田大学の図書館で何日かにわたって何度も何度も読み返したのを覚えている。

 自分にはとても作れそうもない、というのは、もちろんまず歌の技術面を指しているのだが、それ以上に驚いたのは、ナマのままで提示されたナルシシズムや「過剰」についてだった。例えば〈青春は干草まみれだつたさと嘘ついてfar east of Eden〉〈空よりも山が暗いよ この歳になつて故郷の呪縛もないさ〉〈春怒涛とどろく海へ迫り出せり半島のごときわれの〈過剰〉が〉といった歌。英語や「~さ」という口調、「春怒涛」「海」「半島」といった大きなものと対比される「〈過剰〉」に、僕はびっくりした。こんなに大げさな表現をして恥ずかしくないのだろうか、と思った。…こう書くとなんだか貶めているようだけれども、そうではなくて、短歌というのは、2002年の今でも、これくらいのことをしてビクともしない形式なのかと、むしろ短歌の持つ妙な底知れなさみたいなものを意識したのだった。そして、自分自身が抱えていた「過剰」に思いが及び、それをまっすぐに表現することのできない自分を恥ずかしく思った。過剰さがそのまま武器になるとは思っていなかった。過剰さにおいて僕は田村の歌に及ばないと思った。過剰ならばそれと堂々と向き合えばいいじゃないか、それをそのまま表現すればいいじゃないか、と田村の歌は読むたびに僕に語りかけた。

 ずいぶんと青臭い、わけのわからない話になった。「語りかけた」、とか恥ずかしい。まあいいです、ブログなので。

 さて、花びらを、の歌。「一生剝がれなくたつていい」はきっと矜持なのだろうが、でも開き直りのようで、諦めのようで、そして怒りさえ透けて見えるようで、僕は混乱する。「たつていい」における心情が定まらない。上唇に花びらをくっつけて、ちょっと滑稽なありようで身体をそこに提示している主体は、下句においては身体を消して、心情だけになってしまって、しかもその心情は多重の意味を持つから、どこか、心が拡散している、あるべき空間からしみだしている、というように僕には見える。いや、そもそも上句には、上唇しか見えない。身体のすべては見えない。上唇だけになってしまった何者かが、矜持や諦念や怒りといった感情を先立てている。いや、それらを先立てているから、身体は上唇しか意識されないのか。過剰な自意識を抱えた者が、観念を先立てている者が、つまり青春性のまっただ中にある者が、身体を置き去りにしてしまうことはよくある。

 あの頃の田村の歌は僕にとって、青春歌としてやけにリアルなものだった。
 しかし上に述べたような「過剰」を、僕はその後の田村の歌から見出すことができないでいる。一生、なんて言っていたくせに、完全に剝がれているじゃないか。今、田村の歌(や文章)の過剰さと言えば「酒」くらいだ。田村の歌は酒、酒、酒、ってうるさい。

 あの「過剰」はどこに行ってしまったんだろうか。年を重ねるとか大人になるとかいったことと、「過剰」が消えていくということは、ちょっと違うことのように思うのだが。本当に酒と入れ替わってしまったんだろうか。

 わけのわからない話になった。

つなぐ手の

つなぐ手の汗も愛、つてことにして たぶんきみは雨の日に生まれた
吉田隼人

 吉田隼人歌集『忘却のための試論』より。

 手をつなぐときに緊張してしまって、自分は手に汗をかいてしまう。でもそれは愛ゆえなのだ、ということにする。愛があるからこそ過剰に意識してしまうのだ。そのように濡れている自分の手から、連想は雨に及ぶ。きみはたぶん雨の日に生まれたのだ、と直感する。きみが引き連れている雨によって、この手が濡れているのだ。

 という感じに解釈してみて、君の生まれた日にまで遡ってしまう発想がいかにも恋だなあ、というふうにも言っておきたくなる。

「つなぐ手の汗も愛」はあたかも一般論のようにひびくのだが、「、つてことにして」によってそれは、絶対的なものでない、相対化された個人の声に回収される。「、」によるかるい切断が、その二段構えを可能にする。次の一字空けは、下句への踏切板のようになっていて、きみが雨の日に生まれたことによって自分の手が濡れているという、唐突に見出される詩情を十分に活かす。きみが生まれた日にまで時空を越えて遡る、その飛躍を受け止める一字空け。そして下句の破調は、上句と対比したとき、ちょっと早口でトーンの質が異なる。しっとりとした、しかも俯瞰に立った詩情が浮きあがる。上句から下句への転調をもこの一字空けは準備する。また、「、つてことにして」というかろやかなフレーズを呼び出す余裕があるからこそ、主体は緊張に溺れず、下句のゆたかな詩情に至ったのだ、といったことも考えることができるかもしれない。
それから、一首全体に「ア」の音が目立つのだが、だから明るいとか開放的とか、そういうことは安易に言えない気がする。そのあたりもちょっとおもしろい一首だと思う。

 と、こじつけのようにしつこく構造を読んでおいてアレだが、でもこの恋の歌について、僕の興味はすこし違うところにある。

 僕は最初に「手をつなぐときに緊張してしまって、自分は手に汗をかいてしまう」と記したが、これ、そもそも自分の手なんだろうか。きみの手、とは読めないだろうか。きみの手の汗がそのまま、きみが生まれた日の雨、という読み方。結果的に自分の手も濡れるのだろうが、そもそも汗をかいていたのはきみ、という読み方である。

 この「手」は主体の手でもきみの手でもあるように、僕には見える。「ふたりのひとつの手」が見える、とでも言えばよいだろうか、明らかに別々の手がつながれているはずなのに、ことばとしてあらわれたときのそれは、両者を区別できない。ひとつでもある。あるいは、読者として読み返すたびに、主体と「きみ」との間で反転をくりかえす手、というような。
 この歌の「手」には、恋愛におけるそういった、自他の区別がなくなるというか、それを求めてしまうような心情にも寄り添う、不思議な魅力があるように思うのだ。

祈るとは

祈るとは立ち止まること明日われがなくても回る地球の上に
武田穂佳

 2015年度NHK短歌の投稿歌。題は「祈る」。昨年、武田さんはまだ高校3年生だった。

「祈るとは立ち止まること」。どういうことだろうか。よく考えてみるといまいちわからない。わからないのだが、これだけでも妙な説得力がある。「〇〇とは~こと」という格言のような断言にはインパクトがあるし、目をつむってじっと祈る姿は「立ち止まる」という形容を無理なく受け入れる。だからすぐに僕は「たしかに、祈るって立ち止まることだよなあ」となんとなく思ってしまった。そして三句目以降。「明日」という語はつまり未来を指すわけだが、そこに「われ」が「ない」ことを仮定している。「いない」ではなく「ない」。自分がモノ化している。自分を卑下しているかのような措辞だ。その直後、視野は一気に「地球」へと広がる。視線が駆け上がる。あまりの唐突さに、イメージが追いつかない。なんだかとても小さいサイズの地球のような気もしてくる。卓上の地球儀のような。概念と具体の中間地点にあるかのような「地球」。

 地球よりも、モノと化した「われ」のほうが、よほど大きいような気がしてくる。

 実はいまだに、この一首の読みを確定できていない。「立ち止まる」が表すはずの感情や意思が、はっきりしないのだ。自分なんていなくても〈よのなか〉はうごいていくけれども、そこになんとか抵抗したい、それでも祈らずにいられない、という強い気持ちなのか、それとも、自分がいくら意志をもって何かを実現しよう、得ようとしても、そもそもそれは取るに足りないことなのだ、と諦めているのか。「~こと」という二句切れの潔さや簡潔な調べに導かれて、僕は前者の読みをしたくなるけれど、確証はない。

 と、ここまで読んで、ああ、どっちもなのだろうな、と思う。この歌は強い意志と諦めを、同時に読者に手渡すことができる歌なのだ。矛盾を矛盾なく成立させる歌なのだ。「立ち止まること」という断言は、断言でありながら、そこに自信のなさも断念も滲ませている。いや、矛盾、ってつまり理屈や概念であって、具体的な現実のレベルで考えれば、そんなものはこの世に存在しないんじゃないか、なんてことまで考えたくなる。

 そしてここで、この歌の「祈る」は、単なる神頼みとはまったく異質のものとなる。それは、「明日」という現実や自分自身を明確に捉えるための、立派な〈行動〉なのかもしれない。この一首そのものがまさに祈りなのだ……と言ったらできすぎなのだろうけれども。