歌集『人魚』評

第2歌集『人魚』(角川書店)について、歌集評や一首評等をいただいております。
そのつどこちらに紹介させていただきます。

・松村由利子さん「虚実の狭間にて」(「びーぐる」第35号、短歌時評)
・太田青磁さん「Book Review」(「短歌人」2017.5)
・水上芙季さん「最近刊歌集・歌書評・共選」(「短歌研究」2017.5)
・錦見映理子さん「激情のおもむく所」(「短歌往来」2017.5)
・後藤明日香さん「週刊図書館」(「週刊朝日」2017年4月28日号)
・野口あや子さん「小さな選択こそが」(「現代詩手帖」2017.4、うたの聴こえるところまで)
・小島なおさん「気になるホン・ほん・本」(「コスモス」2017.4)
・三浦柳さん「書肆『星座』」(「星座」2017年春虹号)
・松平盟子さん「真珠時間」(「プチ☆モンド」No.96)
・松村由利子さん「『人魚』という事件」(朝日新聞朝刊2017.3.20、短歌時評)
・俵万智さん「新々句歌歳時記」(「週刊新潮」2017年3月9日号)
・松村正直さん「感情そのもの」(「現代短歌新聞」2017.3)
時明さん「時明ブログ」
光森裕樹さん「日々のクオリア」(砂子屋書房ホームページ、一首鑑賞)
・東直子さん「作品の深み増す30代 光森裕樹と染野太朗」(共同通信配信2017.2、短歌はいま)
・穂村弘さん「細部の味」(「週刊文春」2017年2月16日号、私の読書日記)
・光森裕樹さん「「豊かさ」の共有を」(東京新聞夕刊2017.1.14、短歌月評)
松村正直さん「やさしい鮫日記」
桜川冴子さん「桜川冴子の0時間目の短歌」
高木佳子さん「壜」
内山晶太さん「うたのホログラム」(砂子屋書房ホームページ、月のコラム)
恒成美代子さん「暦日夕焼け通信」
鈴木竹志さん「竹の子日記」

その他、ツイッター等でも歌を引用していただいたり批評をいただいたりしています。
どうもありがとうございます。
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掲載情報

〈2017年〉
・短歌 「輝けば」(東京新聞夕刊4月22日(土)、詩歌への招待)
・文章 川﨑勝信編著『千代國一の風光』書評(「歌壇」5月号)
・文章 「思った以上」(読売新聞朝刊4月17日(月)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「幻想の絶景」(読売新聞朝刊4月11日(火)、歌壇俳壇欄「短歌あれこれ」)
・文章 「福岡短歌日記」(西日本新聞朝刊4月8日(土)、随筆喫茶 ※短歌と散文を組み合わせたエッセイです)
・文章 「読者の〈わたし〉の拡大」(日本歌人クラブ「風」第195号、新春競詠「わが輩は○○」寸感)
・文章 「目玉焼き」(「北冬」No.017、わたしの気になる《沖ななも》―。)
・短歌 「乱るれば」12首(「歌壇」4月号)
・文章 「2016年のベスト歌集・歌書」(「短歌往来」3月号、特集)
・短歌 「題詠「赤」「分」など」12首(「かばん」3月号)
・短歌 「あとは」12首(角川「短歌」3月号)
・文章 「方法意識について」(「井泉」1月号、リレー小論私が注目する最近の短歌表現の変化)


〈2016年〉
・文章 「技術」を読むということ(角川「短歌」12月号、特集短歌の「読み」を考える)
・文章 第65回源実朝を偲ぶ仲秋の名月伊豆山歌会記(角川「短歌」12月号)
・文章 大井学『サンクチュアリ』書評(「かりん」11月号)
・文章 歌評(「梧葉」秋号、特集子供をうたった歌―わたしのベスト3―)
・文章 「夏を過ぎても夏の光は」(朝日新聞10月17日(月)、歌壇俳壇欄「うたをよむ」)
・文章 「読者としてのプライド」(「現代短歌」11月号、特集わたしの誌面批評)
・文章 千代國一歌集『暮春』鑑賞(「国民文学」10月号、千代國一生誕百年特集号)
・短歌 「くだつた」5首(「うた新聞」10月号)
・文章 「「短歌」はどういう「詩」か」報告記(「歌壇」10月号)
・座談会 「変化は自然に」(角川「短歌」9月号、特集次の一歩を踏み出すために)
・現代うたのアンソロジー「薬」(「NHK短歌」9月号)
・短歌 「二十時頃」20首(「短歌研究」8月号)
・現代うたのアンソロジー「数」(「NHK短歌」8月号)
・文章 吉田隼人『忘却のための試論』書評(角川「短歌」7月号)
・短歌 「禁ずる」7首+エッセイ(「現代短歌」7月号、特集日本百名山を詠む)
・文章 「伊藤と小池の「読み」から考える」(「短歌往来」7月号、特集『土と人と星』&『思川の岸辺』)
・短歌 「卒業式」13首(「現代短歌新聞」6月号)
・短歌 「当然」12首(「歌壇」6月号)
・文章 「シンポジウムに参加して」(「短歌往来」3月号、今月の視点)
・文章 大口玲子『桜の木にのぼる人』書評(角川「短歌」2月号)
・文章 「吉川との対話は可能か」―吉川宏志の時評の立ち位置(「うた新聞」2月号、特集吉川宏志著『読みと他者』を読む)
・短歌 「先に死ぬ」12首+エッセイ(「短歌往来」1月号、特集若い世代の競詠)

(3月まで「NHK短歌」テキストに「こころ・ことば・からだ」を連載)

イベント等の情報

自分がかかわる短歌関係のイベントをまとめました。
随時更新していきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

〈2017年〉
・1月22日(日)(甲府市・ホテル談露館)
 みぎわ短歌会・平成29年新年歌会

・2月25日(土)13:30~(中野・中野サンプラザ)
 洞田明子歌集『洞田』批評会
 ※パネリスト:大辻隆弘、斉藤斎藤〈司会〉、花山周子、阿波野巧也(敬称略)

・3月8日(水)19:00~(天神・Rethink Books)
 染野太朗の「短歌読みます」

・4月3日(月)14:00~(さいたま市北区・プラザノース)
 短歌入門 プラザノース歌会
 ※毎月第1月曜日、1年間の予定

・6月21日(水)(神保町・学士会館)
 現代歌人協会公開講座「高村光太郎の短歌」

・11月5日(日)(宗像市・宗像大社)
 第46回宗像大社短歌大会

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

染野太朗

第2歌集『人魚』刊行

僕の第2歌集『人魚』(角川書店)が刊行されます。

Amazonではすでに予約も始まっています。歌集の奥付には「12月31日発行」と記されるはずですが、Amazon等では12月27日発売となっています。いずれにせよ、その前後の刊行ということだそうです。

帯文を小説家の中村文則さんが寄せてくださいました。こちらもAmazon等に一部掲載されていますが、実際にはもっと長いものです。
カバー絵は瀬戸菜央さんが描いてくださいました。瀬戸さんはモデルのお仕事などもなさっている方です。

本当にありがたいことです。

歌集『人魚』を、どうぞよろしくお願いいたします。

静岡県立大学に行ってきます

11月4日(金)、静岡県立大学の細川光洋先生のクラスで、学生さんたちと歌会をします。5日(土)は文学散歩です。牧水記念館等に行きます。

細川さんと言えば、「短歌研究」2014年11月号まで「吉井勇の旅鞄」を連載なさっていました。同じく「短歌研究」本年11月号の「特集 吉井勇生誕一三〇年」には、渡英子さんとの対談が掲載されています。また、つい先日刊行された『湯川秀樹歌文集』(講談社文芸文庫)の編集もなさっています。

で、静岡県立大学のHPで、今回のことをこんなふうにご紹介いただきました…ありがたい…そしてほんと、すんごく恐縮しております。


ということで、がんばってきます。

青の缶、白の缶

金麦はかなしからずや青の缶、白の缶にも麦の絵揺れて
われの青、君の糖質オフの白 並べば夏の空のごとしも
田口綾子

 田口綾子「発泡酒」(「まひる野」2016.10)より。

「金麦」は発泡酒の名称(と、わざわざ注記するところがわたしいかにも下戸っぽいですが)。
 一首目は若山牧水の〈白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ〉をふまえているわけだが、この「かなしからずや」はちょっと難しい。わざわざひらがなにしているから、もしかしたら「愛(かな)し」で読んで、反語で意味をとって、「かわいらしくないことなんてあろうか、いや、たまらなくかわいらしい」といったふうに読むべきかもしれない。この場合、擬人化された「金麦」自身がそう思っているということではもちろんなくて、「金麦って、わたしたちにとって、ほんとにかわいらしいものですよね」というような話になる。あるいは、そのまま「哀し」で読んで、「正式なビールじゃないのに、たいそうな感じで麦の絵を掲げられてしまって、「金麦」も哀しいね」というようなことか。

 まあいずれにせよ、「金麦」最高! ということだと思う。

 さらに二首目も、牧水をふまえて読めばよいのだろう。ここではふたつの〈あお〉が対比されているのでなく、「青」と「白」が対比されている。通常のものと比べて糖質を75%カットしたという「金麦」の缶の色は、確かに白をベースにしています。
 牧水の歌においてふたつの〈あお〉は、近い色合いでありながらそれぞれ異なったものとして描かれている。「金麦」の青と白はもちろん、それよりも明らかに別々の色だ。
 
 その青の缶と白の缶、ふたつが並ぶと「夏の空」に見えるのだという。
 空のあざやかな青と、大きく立ちのぼる雲の白。

 ふたつの缶が、別々のふたりが、ひとつの景としてそこに現れるわけだ。

 ほとんど執着とも思えるような「金麦」に対する思い入れや、健康面で何か気にしているのか、「われ」とは違って「糖質オフ」の発泡酒を飲む「君」……たっぷりのユーモアの中に、明るくゆたかな関係性をもって「われ」と「君」とが提示されたのである。

 さらに余計なひと言を付け加えるなら、牧水のふたつの〈あお〉は、色が似通っていたからこそその違いがより際立ったのではないか、そして青の缶と白の缶は、あまりにも色が違うからこそひとつのものとして再定義できたのではないか、ということ。
 まったく異なった存在だからこそ、むしろひとつになることができる。そしてそれが〈ひとつ〉であるかどうかは、ふとした拍子に、自分たちの外側から眺められてはじめて自覚できることなのかもしれない。

 ふたりは別々のまま、混じり合うことなく、けれどもたしかにひとつに見える。
 目の前の小さな景が、夏の空となって、どこまでも広がっていく。

 ということでこれ、本当に素敵な恋の歌だなあと思って僕は読んだわけです。もちろん恋に限定する必要はないのですが。

 最後に、これらの歌を含む一連8首をすべて引いておく。田口さんの歌については、この一連の他にも引用して語りたいことがいくつかあるのだが、それはまた機会をあらためて。

   発泡酒
八月ののどに流せば夏の先へすこし冷えゆくビールと思ふ
秋立つといへば吹く風、秋立つと言はねば胸に留まれる風
プルタブを片手で起こすわれを見てかつこいいねと君は笑ひつ
金麦はかなしからずや青の缶、白の缶にも麦の絵揺れて
われの青、君の糖質オフの白 並べば夏の空のごとしも
宮城県名取市に君は納税しヱビスビールを一箱得たり
恵比須様も君もほほ笑みてゐたりけり金麦を馬鹿にするにあらねど
立秋のビールはのどを流れつつ夏から秋へ酔ひを運べり
田口綾子

とほいなあ

草食んでぢつとしてゐる夜の猫とほいなあ いろんなところが遠い
山下翔

 ツイッターより。

 ゆっくり読んでいく。

 草を食べている猫がいた。まずその猫が遠くに感じられた。道端の草なんかを食べる異種として、自分とはまったく質の違う存在として、猫が遠いものに思われた。物理的な距離も遠かったのかもしれない。

 舞台設定のための夜を描いたりせず、「夜の猫」というふうに、猫に対するシンプルな形容にとどめることで、間接的に夜の空間を示す。わざわざ「夜の」と限定されたこの猫は、特殊なものにも見えてくる。

 そして彼は気づいてしまう。遠いのは、そこにいる猫だけではない。あの場所も、あの時間も、あの人も、あの感情も、自分からはずっと遠いところにあるのだ。
 
 一字空けと「いろんなところ」がうまくはたらいて、結句において「遠い」は抽象化され、一般化され、それの指し示すものがなんであるのか、あらゆる可能性を示唆する。「トーイナー」の長音が、遠くを見やる視線や意識の長さを表すようにも思える。込み入った話になるので詳細は省くが、下句の破調は、一字空けや、一分節の音数の匙加減等により、肉声のつぶやきの感じを残したまま、定型としても無理なくひびいていると思う。
 
 そうしてここで、猫を遠いものとして眺めていた彼は、夜の猫と重なり合ってしまう。猫が自分から遠くにいるのと同じように、あらゆるものが自分から遠い。だから、その猫がまるで、彼自身であるかのように思えてくる。

 猫と自分とが混じり合う。遠いもの同士がそれぞれに混じり合う。そしてただ、遠いということだけが、夜の中で抽象化されて、にじみ出すようにそこにある。

 「いろんなところ」から隔たっている猫。
 ひとりでじっと佇む、夜の自分を自覚する。

 山下の短歌は不思議なたたずまいをしている。「てにをは」の扱いをはじめとした確かな技術があるからだろう、歌の骨格はしっかりとしており、韻律への配慮も利いていると思うのだが、よく読むと、視点や詩的飛躍が独特である場合が多い。とてもシンプルに見えるのに、複雑な回路をもっていたりする。その中に、オーソドックスな、なつかしささえ感じさせる余情を湛えていたりする。時間と空間をたっぷりと含む。威勢のよい口調の奥で、自分を、他者を、しずかに見つめている。

 山下の、歌の鑑賞や批評も魅力的だ。歌に憑依されるように読む。ことば一語とそのつらなりに対する異様な反射神経がある。人の生に対するこまやかな眼差しがある。(本人のブログや、九大短歌会のブログ等で読める。)

 早く新人賞をとるなり歌集をだすなりすればいいのに、と思う(←無責任)。とりあえず、10月に発行されるはずの「九大短歌」第四号を楽しみに待ちたい。

 以下、山下の数ある歌の中から20首を挙げてみる。多いようだが、これはほんの一部でしかない。

記憶よ、お前いつからそこに立つてゐる。鉛筆で手を汚さなくなり
さみしくて暑くて、寝てた。これだから夕方は嫌だ、母がゐさうで。
きみがまた顔をうづめて嗅いでゐる臍のにほひのもう春ですか
曲がり角ぐわーつと口を開けてみる犬もぐわーつと応へてくれる
読むかもしれぬ本は読まないかもしれず鞄に入れてそこからが旅
海峡といふ断絶へ舟を出す、算段などは追ひおひでいい
準同型定理へいたるみちすぢのはたてに鳶がまふ取水塔
わたしもすごくわかりますとふ相槌の、そうやつて呑まんでくれ 俺を
それでキャベツを齧つて待つた。焼き鳥は一本一本くるから好きだ
喉で圧して腹へ落としてゆくときの腴(すなずり)のごと来たり嫉妬は
胡麻鯖に胡麻のざらつき、我が生に黒瀬珂瀾のある会者定離
わたしは町をまちはしづかに夕暮れを掻きみだしつつ冬が来さうだ
愛は愛より生(あ)るる時間の長いよなあ帰つたら柿の実を見にゆかう
愛がなにかわからなくなつて泣いてゐたキャベツは嚙んで食ふから旨い
母がしてゐたやうに花買ひ水を買ひ生家の墓へと坂をのぼりつ
一口も飲まないうちにことごとく氷融けたるおかはりのみづ
とほくから呼ぶこゑがする遠いから大きな声で 呼ぶこゑがする
不安げにつまんでかじる外郎(ういらう)のかくやはらかくきみに惚れたり
芥火の残り火も果て海のおとしばらく聞けばきみを起こしつ
檀弓(まゆみ)咲くさつきのそらゆふりいづる母のこゑわれにふるへてゐたり
山下翔





(…勝手に書いておいてアレだが、良いふうに書きすぎた感があるので、今度福岡歌会(仮)に参加するようなことがあったら、山下をやっつけようという気になっている。)

卓袱台をひっくりかえす

四月十一日雪の吹き荒れて北海道は武道なんです
ほろほろと夕雲は浮き夕雲のごとき雇用にご飯は炊ける
卓袱台をひっくりかえす荒くれの心に卓袱台なければうたを
北山あさひ

 北山あさひさんの連作「四月のできごと」(「まひる野」2016年6月号)より。

 ユーモアというのは、客観とかメタ認知とかいったことによって生まれるものであり、それを働かせるためには、余裕がいる。余裕が客観を生む。……とまずは仮定して、以下、しばらくまたごたくをならべます。

 今回の北山さんの歌の余裕は、「武道」「雇用」「卓袱台」という語がもたらすものだと思う。四句目あたりのそのたった一語が、僕が一首を読みながら知らず知らずのうちに準備してしまっていた定型的な詩情を、ユーモアとともに、ひっくりかえした。

 北山さんはいつも、不意にはしごを外す。

 四月になってもまだはげしく吹雪く様子から、北海道という土地をざっくりと「武道」に見立てている。北海「道」という武道。そして例えば、道着を着た人たちがだんっだんっと畳に打ちすえられる様子を重ねながら吹雪を思うとき、そこには、見知っていた、そして同時に、今までに見たことのない景がひろがる。ちょっと笑う。シリアスなのに。「北海道は武道」……なんて思い切りのよい表現だろう。それから、こまかくは触れないが、初句から二句への句またがりや「道(ドウ)」の脚韻も、注目すべき効果と意味を含んでいる。この句またがりによって「十一日」の中に「一日(終日)」が、掛詞のように浮き上がったりもするわけだ。
 夕雲の歌。口をあまりあけないウとオの音が一首を統べている。それがあまりにもなめらかだから、意味よりも音をやや先走らせて読むことになる。すると「雇用」でつまずく。音の流れにはそのまま乗っかっていたいけど、定型的な詩情に唐突に差し挟まれる「雇用」が、つまずかせる。だから立ち止まる。初句に返ってまた読んでみる。するとこの「雇用」が、いかにも頼りない、泣きたくなるようなものとして再登場する。「夕雲のごとき雇用」。でも、そんな「雇用」であっても、それのおかげで食べていけるのだ。一方で、「雇用」という非・詩語(というと語弊もあるだろうが)と、ウオ音に対比されたご「飯は炊け」るのアエ音が、僕を感傷から引きはがす。かなしい感情や統一された音に、僕を没入させてくれない。客観的であれ、と要求してくる。泣かせてくれない。むしろ、ちょっと笑う。けれども一首全体をふりかえれば、やっぱり泣ける。
 卓袱台の歌。卓袱台が二回も出てくることにまず笑ってしまう。で、これ、試しに「卓袱台をひっくりかえす。」と二句目で一度切ってしまって、本当に卓袱台をひっくりかえしたんじゃないかと思って読んでみた。荒くれていたから、卓袱台をひっくりかえした。でも、心の中には卓袱台がない。ひっくりかえしたのは手であって、腕であって、身体であって、実は心は、何もしていない。心に直接触れることはできない。心の中に卓袱台はない。本当にひっくりかえしたい心には触れることができない。でも、だからこそ言葉に向かう。「うた」に向かう。心と言葉をつなげようとする。……ちょっと無理もあるんだけれど、そんなふうに読んでみた。

 
 ……ここまでがごたくです。

 北山さんの歌の迫力は、一語のひっくりかえしによってあらわれる客観とユーモアにあるのだと思う。そこに僕たちはハッとなって笑えばいい。トホホとなって泣けばいい。じんわりとかなしめばいい。日本の雇用がどうとか賃金がどうとか考えたっていいのかもしれない。けれども僕が一番大事にしたいのは、その一語がまぎれもなく、四月の吹雪に呆然としたり、それでも食べていくのだなあとかるい諦めのうちに佇んだり、苦しみながらもプライドをもってどうにかこうにか言葉を求めたりといったその本人の、あまりに独特なその主観によってもたらされたものだ、ということだ。主観が客観を生んだのである。そこに余裕なんてものは、なかったかもしれない。
 でもその個性的(という言い方は好きではないけれど)な主観が、読者を笑わせ、感動させ、救ったりもするわけだ。

 それを「誰かが自分の生を全力で生きることが、そのまま別の誰かの生を救うことにもなる」というふうに言いかえたら、飛躍があるだろうか。大げさだろうか。でも僕は北山さんの歌を読むたびに、そんなことを考えてしまう。

 そんなふうに考えること自体が、救いになるときもある。

短歌大会に参加します

この9月、2つの短歌大会に選者として参加します。

2016年9月15日(木)
第65回 源実朝を偲ぶ仲秋の名月伊豆山歌会

2016年9月17日(土)
第10回 全日本学生・ジュニア短歌大会
(第37回 全日本短歌大会と同時開催)

背すじを伸ばして、伸ばしきって、参加します。

よろしくお願いいたします。